
92歳の元気な姿を、いつも見せてくれる。東京津南郷会の創設メンバーで、5日の新年総会にも、いつもの笑顔を見せた。
大正13年12月8日生まれの小林さん。この日は太平洋大戦の開戦記念日でもある。小林さんも出征した。海軍だ。
終戦間際の昭和20年。大戦の中でも激烈な戦場となった硫黄島に向かう船に乗っていた。「正月過ぎだったから2月頃かな。駆逐艦2隻で輸送船を護衛していたんだが、硫黄島が見えてくると、グラマンが編隊を組んで襲ってきた。私が乗船していた船の船長の腕が良かったんだな。グラマンが襲ってくるだろう、そうすると船を急旋回してかわすんだ。駆逐艦は120bほどだったから小回りが利く。船長の腕が良かったから、命拾いしたようなものだな」。
終戦は宮崎の陸の上にいた。船が襲撃でやられ、乗る船がなくなり、油之津(あぶらのつ、現・日南市)で砲台を3基作り、敵機を待ち構えていた。上部から「港湾の油之津に来るから、来たら迎え撃て」と言われたが、8月を迎え、終戦になった。生まれた芦ヶ崎には9月1日、祭りの日に帰った。
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荒川区にあった「小林紙業株式会社」。6人兄弟の4番目の甲さんは養子に入った。幼い頃の記憶がある。「昭和2年、4歳の時と思うが、東京で大博覧会があり、親父が私を養子にするということで東京に連れて行った。あちこちに行った記憶があるな」。その時に内諾していたのが小林紙業。同社には子がなかった。「オヤジは紙の統制会社の役員をやっていたんで、自分では直接仕事はしなかったんだが、おふくろの方が、私にねじをまいたんだな。この人は私が憎いんだなと思うくらい厳しく言われたな」。
養子入りは22年2月10日。はっきり覚えている。寝食を忘れ家業に精を出し、町内会の役員など地域の要職にも就く。「50年ほどやったかな」、紙業を止め、今はリサイクル関連会社に事業所を貸している。
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戦後まもない昭和22年の東京は、まだ焼野原。小林紙業も焼け出されたが再興に向った甲さん。「高等科で習った農業を思い出したんだ。野菜づくりには畑に灰を入れることを。焼野原だから灰はいくらでもあった。畑に灰を入れてトマトの苗を探してきて植えたら、これがすごかった。近所の人たちが『お宅のトマトはすごいねぇ』と驚いていたね。近所に配って喜ばれたな」。
家業を復興させ、地域活動にも取り組み、荒川区の役所関係業務も担い、荒川区交通安全協会副会長を50年ほど務め、警視総監表彰を受けている。
「ふるさとから遠く離れ、東京など首都圏で暮らす人たちの集いの場を作ろう」と昭和32年、津南や中里の出身者らと『東京津南郷会』を立ち上げる。以来60年。同会は昨年60周年記念式を開いた。甲さんはその創設メンバー。毎年の新年総会、ふるさと訪問にも参加し、宴席の最後の定番、「からす踊り」では、真っ先に踊りの輪に立ち、参加者を引っ張る。「そうだな、元気なうちは出るよ。皆に会えるのが楽しみだし、元気の源だな」。92歳は、なお現役だ。