「あきらめないでやれば、できる」。この実感を抱いたのは、念願が叶った箱根駅伝出場の1年前、3年生の12月だった。大学の記録会で1万bの自己ベストを出した。「29分45秒」。なぜ自己ベストが出せたのか自問した。『やることをやっていれば、結果はついてくる』。それは、自分の原点を確認することだった。
全校児童20人余の三箇小から津南中学へ。迷わず入部した陸上部。その日が箱根へのスタートの日だった。帰宅後、毎日走った。雨の日も、雪の日も。津南中学3年の時。箱根でヒーローになった服部勇馬、弾馬兄弟の中里中学と新潟県中学駅伝で全国出場を競った。伝統のチーム力で津南中学は追い上げる中里を引き離し全国切符を手にした。山口での全国大会。強豪の強さを感じると共に、思いがさらに増した。「箱根を意識した時です。1年生の時から夢は箱根でした」。
箱根をめざし親元を離れ東京学館新潟校に進学。「先輩に連れていってもらいました」というが、1年生でメンバー入りし、県駅伝で優勝し京都・都往路4区を走る。先輩を追い帝京大に進み、迷わず駅伝競技部に入る。
同部60人余は走力に応じて3棟の寮に入る。1年時は強いメンバーの寮に入れなかったが、2年で最強チーム寮に入る。親と同年の中野孝行監督は選手の気持ちをつかみ、生活面を含め指導。先輩と後輩の2人部屋。競い合うと共にチーム力アップが狙い。
あっと言う間の3年間。その年の12月。駅伝メンバー選考の要素となる大学内記録会で自己ベストを記録。その年はメンバー入りできなかったが「なにか自信をつかみました。やることをやれば、タイムと結果はついてくると」。
ラストチャンスの4年生になり、安定してタイムが出せるようになった。「自分の変化というより、原点に返った感じでした」。中学時代の毎日のランニング。その結果の全国大会出場。あの思いがよみがえった。
12月初め。箱根の1次エントリーに入り。その伏線はあった。夏の7月、9月の試走で6区山下りを2回走った。年末29日の最終エントリーで中野監督から「6区を頼む」。
往路の青学の驚異的な走りで、復路は9位の帝京大以下が一斉スタート。「最初は声援や景色を見る余裕はありましたが、中間付近からきつくなり、声援も聞こえる状態ではなかったです。地元から多くの皆さんが応援に来られていると聞いていましたが、後半にはその余裕はありませんでした」。
6区20・8`のラスト2`付近に両親はいたが「分かりませんでした」。次の7区は後輩の3年生。1秒でも早く早くと懸命の走り。走り終わって吐いた。「吐いたのは初めてです。緊張感がすごかったんですね」。死力を尽くした走り。その思いは以降のランナーに伝わり、帝京大は10位でシード権獲得。「目標タイムより30秒ほど遅かったため、僕で2つ順位を落としてしまった。申し訳ない気持ちです」。「目標にしていた箱根を走ることができたのは、支えていただいた多くの皆さんのおかげです」。
中学時代、ライバルだった服部勇馬選手は五輪をめざす。「来月の東京マラソンに出場します。僕は競技生活に区切りをつけましたが、勇馬はずっと応援します」。4月から、首都圏に本社を持つ流通会社で社会人生活をスタートする。 (恩田昌美)