6代前の「平助翁」が建てた2百年余り前の茅葺き造りの家を夫婦で守る石沢今朝松さん(85)、ヒサさん(80)。平助翁は山師で木流し職人だった。「清津川上流で木を伐り流し、信濃川合流近くで筏(いかだ)に組んで、それに乗り長岡まで流したそうだ。ある時期、長岡の木材相場が良くなかったので、ならばと自宅を建てたと聞いている」。太い梁など相当な良材で建てられたことが伺える。だが茅葺き屋根は、維持と修復が大変だ。
晩秋11月中旬から「茅刈り」。その茅場も休耕田を使い自分で作った。刈取りはヒサさんが茅を束ね、今朝松さんが刈払機で刈る。その場で立ち乾燥させ、乾くと家に運び「ソラ」に2人で上げる。「そうだなぁ、この家の屋根すべてを葺き替えるには4千束いると言われた。だから毎年少しずつ茅を保存し、少しずつ直している」。近く屋根の一部の葺き替えを行う。
縁戚を通じて昭和34年結婚。経済成長期が始まる。子どもが4歳頃、まだ珍しかったテレビが近所に入った。「息子は朝起きると、いつの間にかその家に行っていた。しょうがないから買ってやった」。39年の東京五輪、そして美智子さんご結婚。「あの頃から時代が変わって来たな」。
農業で生きる決意をしたのは、当時の町長、村山正司氏の農業への熱き言葉を聞き、感じ入ったことから。最盛期には水田3f、ダイコン栽培1fを夫婦で営む。
「1年中、ダイコン出荷だった時期もあったね」。すべて夫婦で行った。後にアスパラ栽培に取り組み、いまは80eのアスパラだけにしている。
「息子に後を継がせようとして、大学でも農学部に行かせた」。だが、思惑は外れた。宇都宮大農学部に進んだ長男は、病理学を先行し、大学院卒後、新潟県職に。「どうもあてが外れた。仕方ないから2人で出来る農業となったわけです」。
数少なくなっている茅葺き家。「うちは代々伝え聞いていることがあり、それを次に伝えるのも我々の役目かな。茅刈り、茅葺き屋根の普請、なんとかやっていきたい。幸い、茅葺き職人が育ってきていることは、ありがたいことだ」。
家を守ることを生活に組み込み、年中行事も昔ながらに伝えている夫婦。冬場はワラ仕事。「昨年は大きなツグラを3つも作ったね」。かたわらで今朝松さんが笑う。