海軍は志願だった。高等科2年の時。「どうせ徴用に出されるんなら、志願した方がいい」。大沢巳作さん(87)は、15歳で入隊した。
なぜ、海軍。「俺は扁平足なんだ。だから走ることや長く歩くのは駄目。ろくに泳げもしないのに、よく行ったと思う」。
小学時代。水泳は近くの信濃川だった。「あの頃は、親の許可がないと行けない。うちの親は危ないからと許可を出さなかった」。その後、学校にプールが完成。「あれは小学6年の時だったな。海軍上がりの先生が来て、泳げない俺を、プールの一番深い所に放り投げるんだ。溺れる寸前で助ける、こんな繰り返しで、なんとか少し泳げるようになったが…」。
山口県の海軍潜水学校に配属。潜水艦だ。訓練で何度も潜水艦に乗船したが、戦局が悪化するなか配属されたのが『特殊潜航艇』の水雷課。水雷とは『魚雷』のこと。
真珠湾攻撃で使われた特殊潜航艇は2人乗り。水雷課に配属された頃、真珠湾攻撃の話を聞いた。2人乗り特殊潜航艇5隻が出撃。全隻が撃破されたが、奇跡的に1人の生存者がいた。「爆風で飛ばされ、そのまま気絶し捕虜になった。開戦後最初の捕虜だったようだ。まさに九死に一生を得た、だな」。
配属された特殊潜航艇の水雷課。基地は姫路・播磨造船所。甲・乙・丙・丁と新型が作られた。真珠湾攻撃は甲型。大沢さんが乗船したのは最新式「丁型」、5人乗り。2基の魚雷を装備。敵艦に魚雷を発射後、すぐに引き返す潜航艇。瀬戸内海で訓練し、日本近海に出撃した。
ある日、艇長から言われた。「大沢、テストパイロットをやれ」。開発する特殊潜航艇のテスト乗員だ。瀬戸内海の一番深い場所で、開発した潜航艇を水圧耐圧テストする。特殊潜航艇の両端をロープで吊り、そのまま海深く沈める。水圧により内部機器に異常がないか調べる。そのテストパイロットだ。
「もう怖くてビクビクだ。嫌だとは逆らえない。やるしかない。片方のロープが外れたら、そのまま海の底だ。とにかくおっかなかったな」。
さらにある日。再び艇長に言われた。「今度、新潟に行ってもらうぞ」。自分の出身地だと喜び、言われる任務を遂行した。だが、そう言われてまもなく終戦。結局、新潟行きは実現しなかった。
戦争終盤。海軍は『人間魚雷』を使った。「あれは、特別な場所で秘密に作っていた。瀬戸内海の小島で製造していた。島を回った時、あれに使った鉄屑が山のようにあったのを覚えている」。
時々、テレビで山口や舞鶴、瀬戸内の景色が出る。「ビクッとする。あの頃の地を訪ねてみたい気もするが…」。1歳違いの弟は義勇軍に志願し、最初のソ連侵攻に遭い、その地で戦死している。
「俺の兵籍番号は『舞志水19・・』だが、あとの数字が思い出せない。こんな話、もう話すことはないだろうなぁ」。
(恩田昌美)