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2015年06月の津南新聞「トピックス」

過去の津南新聞トピックス
キーパーソン「ニュー・グリーンピア津南、加藤社長、三宅副社長語る」  7月3日号
 今月1日からニュー・グリーンピア津南(NGP津南)を経営する株式会社津南高原開発のトップについた加藤正夫社長(61)、三宅副社長(56)は、今後の経営方針の取り組み姿勢として『チーム津南』という言葉を使う。「この四季豊かな自然、水、食などポテンシャルの高さは、可能性につながる。なんでもあるからこそ、しっかりお客様にテーマを絞って提供する必要がある。これまでの知見をフル稼働して臨む」。代表権を持つ両氏の挑戦が始まった。

 「幸いというのか、手垢(てあか)がついていない良さ、これを純粋に発揮し、地域のために持続発展させるのが、我々の役目です」。津南町を訪れ、半年間余り東京から通った印象を語る三宅氏。中央大法学部からセイコー、ノーリツ鉄機、ユニックなどマーケティング事業を担当。2012年からアイランドスノーリゾート飯山・牧の入の社長を務める一方、不動産やコンサル事業のOGIホールディングス顧問を歴任。「これまでの知見を津南のために発揮したい」と在役職を辞め、NGP津南副社長一本に絞っている。
 NGP津南は、夏と冬は相応な入込みだが、春と秋が課題という。「単に新緑や紅葉だけでは、なかなか誘客に結び付かない。秋の紅葉時期を合わせ、企業では上半期から下半期に移る時期。社員旅行や研修シーズンであり、こうした要素を加えた商品提供など、恵まれた自然プラスアルファの営業が必要」。全国の企業や業界、スキー場2百ヵ所のコンサルなど実績あるキャリアを持つ三宅氏。その経験がNGP津南の経営に期待される。

 湯沢・岩原にマイホームを持つが、現在は石川・白山市のスキー場経営会社(スノーエリアマネジメント白山)の社長を務める加藤氏。10月末まではNGP津南と両社の社長兼務になる。
 「津南はなんでもある。それだけにしっかりテーマを持ち、付加価値を高める取り組みが必要。食もそうだ。オーガニックの考え方を取り入れたい。例えば野菜。従来の生産品とオーガニックの野菜、これを同じテーブルで提供する。お客様はどちらを選ぶか。オーガニック・リゾートの取り組みができる」。

 北陸信越索道協会の副会長である加藤氏。NASPAニューオータニ、ウィンザーホテル洞爺、竜王スキーパーク、群馬・川場リゾートなどに関わる。年2回ヨーロッパに行き、スキー関係の世界規模の会議に出席する。ここで食への取り組みのヒントを得ている。「素材にあこがれる人をターゲットにできる。価値の乗った野菜、それがここ津南で提供できれば、大きな誘客に結び付く」。「素材に付加価値を付ける、これが日本料理の得意とするところ」という。それが『オーガニック・リゾート』。この経営理念を「コンセプト・ブック」として近く全職員、町関係者に配布する予定だ。
 冬期シーズンに積極的に取り組む。今冬も20校近くの中学・高校スキー修学旅行の予約が入る。「いまのスキー講習は学生にとって楽しくないだろう。指導方法やボード選択などを含み、もっと魅力ある受入れができる。まだまだ来てもらう余地はある」。スキー板を3タイプ用意し、それに合わせたゲレンデ展開を行うなど蓄積したノウ・ハウによる冬の誘客アップに自信を見せる。

 経営の新戦略のキーワードは『データミックス』。両氏とも企業・業界のマネジメントに多く関係した実績から出る理念。「この10年間の実績をまだまだ活用されていない」と見る。『データミックス』の必要を説く。「どこから来て、ビジネスは個人か法人か、広告媒体なのかエージェントなのかなど月別データをしっかり分析し、どこにどれだけ力をいれるか、これが事業計画だ。精神論では成果は出ない。これが築き上げられたら強い。この10年間の蓄積データを活用したデータミックスによるマネジメントを作る」。過去の実績を新戦略に結び付ける経営戦略を描く。一方で「正直、これまでよくやってこられたと思う。だが、30年経過する建物でが、とても大切に使ってきたことに感謝したい」と話す。

 管理面の厳しさを見ている。「年功序列はあり得ない。発揮能力、貢献利益、この2点で評価する」。加藤氏は白山市のスキー場経営で、8年間で社員1人あたり百万円の給与アップを実現したという。
 両氏は語る。「これまでいろいろなステージでやってきたが、さらにやりがいがある場を見つけた、ということです」。
     ○
 ニュー・グリーンピア津南の所有者、津南町は新経営体制に期待する。今月中には10月からに新たな契約更新内容を公表する方針。その中では「賃借料を規定し、施設修繕に対応する」方針で、賃借料は売上の一定割合、あるいは定額方式などを検討している。「加藤、三宅の新体制」は、いきなり「利益」という大きな命題を背負い、数字が評価に直結することになる。
     (恩田昌美)

語り継がねば「尾身キミさん・94歳」あの日、満州で自決を決意」  7月3日号
 満州(中国)はシベリアに近い阿倫河(あろんが)開拓団の一員として迎えた敗戦日の昭和20年8月15日。夜、開拓団長が全員を集めてこう言った。「日本は戦争に負けた。もう日本に帰れない。みんなで自決しよう。家族全員一緒に自決できるよう、私が手榴弾を持ってきます」。その場にいたみんなが泣いた。胸には生後9ヵ月の娘。「この子だけは死なせたくない。だけど生きていても辛いことばかりだろう…」。あまりの酷な現実に、体が震えた。

 「赤い夕日に照らされて…」の歌が流れた時代。国策で「満州は夢が詰まった場所」だった。昭和19年2月。1ヵ月前に結婚し、一足早く満州に行っていた夫の所に向かった。阿倫河・高千穂集落18世帯。1年ほどは平和だった。しかし翌20年7月15日朝、開拓団員は徴兵しないとの約束だったが、夫宛てに「赤紙」が届いた。赤紙は集落全世帯に届き、一家を支えるべき男たちがその日の夜に出兵した。
 夫たちは、移動した関東軍の代わりに、ソ連(ロシア)国境の守備に当たった。「それから1ヵ月も経たない8月8日、ソ連が参戦したんですよ。それ以来、夫の顔を見ることはできなかった」。

 集落に残ったのは、出兵した夫の妻と老人、子どもだけ。「ソ連が攻めてくる」との情報で、学校や病院などの施設がある「本部」に他の集落を含め50世帯余りの家族が集まり共同生活。そして8月15日を迎えた。
 自決を決意した夜。手榴弾を取りに行った団長は、翌朝になっても戻って来なかった。「あの時、自決していたら…。本当に怖い夜だった」。
 9月に入ると騎馬隊の「匪賊」が襲ってきた。生活用品まで洗いざらい持って行かれた。加えてソ連兵もやってきた。「何をされるか分からない」。ソ連兵が来る度に林などに逃げ込んだ。そんな日の連続だった。

 満州の冬は早かった。11月に入ると寒さが厳しくなった。団長が満州の集落長にお願いして、住み込みの手伝いとしてそれぞれの家庭に入ることができた。「みんなやさしくしてくれました。私たちにも同じ食事を出してくれ、それで寒い冬を越せることができました。今でも感謝しています。いい人たちだった」。
 ただ、そんな時に娘が肺炎で亡くなる悲運。わずか1年半の命だった。娘を抱いて、涙が枯れるまで泣き続けた。

 21年春。親子ら15人ほどで日本人が多く住む『チチハル』まで、160`余りをへとへとになりながら歩いた。着いた先の日本人収容所の倉庫は大勢の難民でいっぱいだった。「寒さと栄養失調で、何人もが発疹チフスに罹ってバタバタと死んでいった。義勇軍の若い奥さんや子どもたちだった。トイレだと思って開けたら死体の山。収容し切れない死体が外にも重ねてありました」。

 「辛い思い出はまだいっぱいある」、そう話す尾身キミさん(94、十日町市丸山町)。「夫の死を知ったのは日本に帰ってから。終戦がもう1ヵ月早ければ夫も死ぬことはなかった。開拓団の悲劇も半減したはず。もう1ヵ月…」。(村山栄一)

早く食べたいな、中津地区推進協議会   7月3日号
 ○…来年4月を目標に、中津地区振興協議会発足をめざす、設立準備会「中津地域作り推進委員会」(富沢春江会長)の住民交流企画第1弾「芋植え会」は先般、旧中津小の学校畑で開催。地域の子どもたちら50人余が参集。久々に母校に集り、サツマイモ、ピーマン、スイカ、トマト、大根などを「早く大きくなってね」と願いを込め約1畝の畑に植えた。秋には同委で収穫祭を開き、住民交流を進める方針だ。

 ○…同委は総務、企画、イベント、広報、安心安全の5部会で活動。今回の芋植えはイベント部会(田中ふみ子部会長)が閉校で休耕となった畑の活用をと企画。田中部会長は「中津地区が閉校後も仲良く進むため、顔を合わせる機会を大切にしたい」と話す。なお同委は中津校舎清掃やグラウンド整備なども協力を呼びかけ、住民交流を進める予定だ。

懐かしのGS,ツイストも  7月3日号 
 ○…「夕焼け、君の夕焼け、真っ赤な別れの色だよ…」。「エメラルドの伝説」や「ブルーシャトー」「亜麻色の髪の乙女」など60年代を中心にした懐かしいグループサウンズの名曲が次々に披露され、会場は「あの青春時代をもう一度」と盛り上がった。

 ○…十日町で活動を続けるファイブコメッツの49周年コンサート「栄光のグループサウンズフェスティバル〜青春のときめき〜」。27日、ラポート十日町で開いた。会場には当時、青春を過ごした3百人余りが参集。最後にベンチャーズサウンドが響くと会場はツイストやゴーゴーダンスの場と化すほど熱気ムンムンだった

開業以来最高、ベルナティオ宿泊10万人突破  6月26日号
 経営トップとして3年間、当間高原リゾート・ベルナティオを牽引した小泉裕社長と8年間同副社長で経営サポートした阿部和彦副社長は26日の株主総会で退任。両氏に感謝する集いを18日、ベルナティオで開き、関係者80人余が出席し、長年の尽力に感謝した。小泉社長は「ようやく震災前のお客様数に戻ってきている。今期は宿泊10万人を超える見込みで、開業以来最高となり、確かな手応えを感じている」と、経営トップとして自信を持ってバトンタッチする思いを話した。

 小泉社長は東京電力から6代目トップとして就任。阿部副社長は鹿島建設からで両氏で経営に取り組んだ。この日の集いには当間高原リゾートが構想された当時、市担当課長だった村山潤副市長が出席し、初代で今春死去した梅田健次郎社長など歴代トップの労苦などを紹介し「今期、宿泊が10万人を超える見込み。尽力に感謝したい」と労をねぎらった。

 当間高原リゾート・ベルナティオは1996年10月開業し、2006年の宿泊9万6千人が最高。震災や豪雨・豪雪など自然災害に影響され減少したが、一昨年6万8千人、昨年8万6千人と増加し、今期は順調な予約などから10万人突破は確実視された。大きな要因は昨年から運営委託した「ナクアホテル&リゾートマネジメント」社への委託が好影響し、さらに同社から佐野智之総支配人を招き、営業活動が奏功している状況だ。

 集いでクリスタル記念品を受けた小泉社長は「平成19年から当間に関わり3年前に社長に就いた。当時のトップから『おまえ、踏ん張れ、持ち堪えろ』、と、このひと言で押し出された。今期、宿泊10万人を超える見込み。ホテルの人たちの表情が明るい、これは嬉しいことだ。この3年間、最高の素晴らしい仕事をさせていただいた。今後は勝手に十日町市の観光大使を名乗って、十日町をPRしていきたい」と話した。

 一方、阿部副社長は「十日町は大好きだ。平成19年5月に赴任したが前年に決まっていた。この年、十日町の野中小学校閉校がNHKニュースで流れた。それを見た娘が『お父さん、こんな所にいくの』とポツリと話した。その娘もこれまで10回以上、十日町を訪れ家族皆が当間が大好きになった。地方創生がいわれるが、これはチャンスだ。今後は十日町ファン、当間ファンの1人として応援したい」と話した。

写真・小泉社長、阿部副社長は26日の株主総会で退任。感謝の集いが開かれた

あの熱気をもう一度、竜ヶ窪温泉、11期連続赤字、地元利用が課題  6月26日号
 住民の共同出資で温泉湧出に成功し、地元出資と津南町の共同出資で運営会社を立ち上げ、温泉施設と共に食堂、農産物直売所などを経営する株式会社竜ヶ窪温泉の第20回定時株主総会を23日開き、11期連続の赤字決算を報告し、株主承認した。この赤字経営は先の町議会6月議会でも取り上げられ、上村町長は「あの温泉掘削時の地元の皆さんの熱意、盛り上がりを思い出し、地域で盛り上げる努力をお願いしたい」と地元での活用増加を促している。

 全国名水百選・竜ヶ窪近くで地元の熱意で湧出した竜ヶ窪温泉。経営する同社の総売上は約8350万円。温泉売上は前年比14%減と冬期間の落ち込みが大きく、食堂・売店・直売所などはほぼ前年並みを維持している。総会で涌井九八郎社長は「冬期間の入込みの減少は、地理的な影響もあるが大きな課題だ。会社として大きな判断を迫られる時期に来ている」などと経営見通しへの厳しさを話している。

 ただ一方で、年間約4万人の温泉利用の内訳では、地元利用が数%程度であることが判明し、地元利用を促す取り組みが大きな課題になっている。取締役のひとりは「地元利用への声掛けなど行っているが、なかなか数字に結びつかない。あの温泉掘削を実現した時の思いを、もう一度思い出し、この温泉施設を地域みんなで盛り上げてほしい」と切望している。なお、「980円パック(温泉入浴と食事付)」が好評で町内外からの利用者の関心を呼んでいる。

10代のまなざし・板場優奈さん・十日町3年・津南町「母との女子トーク」  6月26日号
 小学生の頃、おひな様をロフト(屋根裏部屋)に片付けた時、そこでギターを見つけた。「お父さんのでした」。あれから10年余り、いまそのギターを時々弾いている。
 音楽との出会いは小学入学時に始めたピアノ。すでに閉校したが、母校の三箇小時代、それも6年生で最後の卒業生となった年、全校で取り組んだリコーダー演奏コンクールで全国大会出場を果たした。「最高の思い出です。今も時々リコーダーをふきたくなります」。閉校したその年、全校で埋めたタイムカプセルを20年後に開封する約束だ。

 昨年、十日町高の文化祭・南陵祭にガールズバンドで出場。『スキャンダル』の楽曲を5人でライブ演奏。6ヵ月前から練習し本番に臨んだ。
 実はこれも父が突然買い求めた「電子ドラム」がきっかけ。「自分用に買ったのだと思いますが、私が夢中になってしまいました」。文化祭で完全燃焼。その後は受験モードに。「音楽が好きですから、あのギターを思い出し、いま時々弾いています」。

 めざす方向は決めている。『管理栄養士』。一番身近な存在、母の影響だ。家族を食で支える母を見て、漠然と抱いていた思いが次第に形になり、進む道を決めた。「料理は得意ではありませんが、病院などで人のために働きたいと思います」。時々、気が向くと母と料理を作り、先日はハンバーグを作って家族に振る舞った。
 母との時間を大切にしている。一緒にお風呂に入り、母と娘の「女子トーク」が日課だ。「なんでも相談に乗ってくれます」。              (恩田昌美)

シリーズ連載・語り継がねば「ニューギニアで激戦、200人隊員が戦死し半減  6月26日号
 敵機高度4500。航路角零度」。まっすぐに向かって来くるアメリカB29爆撃機。手にした20a対空双眼鏡。目を凝らすと、爆撃機下方の弾倉が開いていた。完全な攻撃態勢だった。「撃てー」、指揮官の号令で一斉に高射砲が火を噴いた。それと同時に敵機からの投下弾が次々に炸裂。爆発音とともに土砂が舞い上がり、あたり一面は暗闇。硝煙の臭いと「ぎゃー」という叫び声…。

 満州はロシア国境に近い城子溝に関東軍の軍要員として配属されたのは、徴兵された昭和17年直後。しかし南方の戦局悪化から翌18年、激戦地でもあるニューギニア島へ向かうことになった。
 野戦高射砲第57大隊・濠北派遣第4358部隊。本来ならオーストラリアへ向かう部隊だった。18年10月8日、朝鮮半島の釜山から7千d級の貨物船で出発。隊員は倉庫に詰められた。1ヵ月後、マニラに着いた後は、米軍機の襲撃もあり、逃げ隠れしながらの航海。目的地のニューギニア島・マノクワリに着いたのは11月15日だった。ジャングルに入り込み、運び込んだ高射砲で連合軍機を迎え撃つことになった。
     ○
 部隊は2百人ほど。食料補給は全くなかった。食べ物がないためサツマイモ畑を作ったが、米軍の爆撃機が襲来しては耕作畑に爆弾を落とした。作物は出来ず、毎日が飢えとの戦い。「バッタなどの昆虫、ヘビ、トカゲ、さらにネズミも取って食った。野菜は手近の草。敵機が海に爆弾を落とすと、魚が死んで浮かんだ。それが唯一のご馳走だった。ネズミの皮の剥き方、今でも覚えているよ」。
 病気やマラリア、栄養失調で命を落とす兵隊も多かった。当初は野戦病院もあったが、いつの間にかなくなっていた。「デング熱やマラリアにも罹った。薬があった訳ではないが、何とか助かることができた。運がいいんだろうな」。
     ○
 敗戦までの1年半。繰り返す米軍機とイギリス軍機の爆撃。「日本軍の飛行機は1機も来なかった。来るのは敵機ばかりだった」。半数の百人ほどが戦死。「地獄とは、このことだったよ。戦死者の惨状、思い出したくない」。近くにいた2万人の歩兵部隊はジャングルへと進軍。空爆などで生き残ったのは十数人だけだったと後で知った。
 敗戦の20年8月15日、「全員集まれ」の号令。無線による玉音放送は聞き取れなかった。が、日本は負けたと知らされた。3、4日後、連合軍機が空からビラを撒いた。『戦争は終わった。しばらくその場で時期を待たれよ』といった内容だった。帰国できたのは21年5月。米軍船の中で「『早く日本に着いてくれ。早く家に戻りたい』、それだけ思続けていた」。
     ○
 長年、夫婦ふたり暮らしだったが、長岡に住む娘が家事の世話に来るようになった。「腰が曲がって大変だ」と笑うが今も家庭菜園と菊づくりが趣味。新聞やテレビニュースを見るたびに「今の政治家はみんなおぼっちゃん。戦争の怖さを知らない。だからあんな安保法案など持ち出すんだ」などと話す。

プレミアム商品券、3時間で完売、公平性疑問の声も  6月26日号
 津南町のプレミアム商品券は22日、町内金融機関で一斉販売しわずか3時間余で完売。発行総額6720万円、5600冊の同券使用期限は7月1日〜12月末まで。町商工会では「地域経済の起爆剤に繋がれば」と期待している。

 国補助を受け5年振り発行となる町プレミアム商品券。今回は事前申込制ではなく、町内金融機関と町商工会で直接購入する形に変更。1冊1万円、プレミアム分20%が付き額面は1万2千円。最大1人5冊まで買える形式。22日朝、午前8時半開店の塩沢信用組合前は50人余が長蛇の列。町内貝坂の60代夫婦は計10冊を買った。「水回りの工事を考えています。2人で2万円分のプレミアムはありがたいです」。大割野の61歳女性は行列を見て焦った。「20%のプレミアムは凄いです。スーパーやガソリンなど必需品にも使えるので買えてよかった」と胸をなで下ろした。

 一方、公平性を疑問視する声も。購入時に郵便局を除く金融機関と町商工会では署名を取ったが、重複購入者の確認はしておらず、実際複数の販売店を巡る購入者の姿もあった。町内大割野の44歳男性は「朝から金融機関に並ぶのは勤め人には難しい。土日まで残っていたら買う予定だった」と残念がる。町内の66歳男性は「1人5冊まで購入できることで買える人の総数は減り、本当に困っている高齢者などは買えなかったのでは。事前申込なら買えた」と指摘する。

 今回、金融機関での直接販売を決めたのは5年前の苦い経験がある。町補助を受けプレミアム商品券2千冊(上限1世帯2冊、2万4千円分)を事前申込制で発行したが4百冊が残り、それ以降同券の発行は無かった。町商工会・橋政徳会長は「手続きの煩雑さを今回は大きく削り、1人5冊までの上限は消費者のモラルに任せた」と話す。一方、7千万円余の地域内消費発生に「今度は自店にどうお客を呼ぶ努力ができるか、供給側の問題となる。リピーターが増える取り組みを」と地元店の奮起に期待する。

情報発信、町民主導で冊子作り、津南町が新プロジェクト  6月26日号
 津南をもっと発信したいと、町民主導の新プロジェクトがスタートしている。『つなGO!プロジェクト』。プロの情報発信アドバイザーやライターを講師に自主参加の男女10人が今秋発刊をめざし、津南町の魅力満載の小冊子作りに取り組んでいる。
 初顔合わせとなった第1回編集会議を20日開き、10月発行予定の第1号テーマを『米・こめ』に決め、テーブルを囲み特集企画などの意見を出し合った。同プロジェクトには地域おこし協力隊の女性3人など男性2人を含む町民10人が参加。講師のトラベルライター・朝比奈千鶴氏が関係した北海道や淡路島、与論島などの小冊子を参考に編集方針を語り合った。

 編集会議では「Uターンする若い人が多い。高卒後、多くが一度は首都圏に出て津南の良さを改めて感じUターンする。なぜUターンするのか」や「魚沼米の産地であり、日本一うまいコメに合うおかずは何か」、あるいは「地域の家には必ず花がある。なぜ津南には多いのか」、「消えってしまった子どもの遊びなど、今の子たちに伝える特集を」など意欲的な企画が続々出た。

 講師の津南町情報発信アドバイザーのフジノケン氏は「都会に住む40%余が移住したいと考えている。この人たちにどんな情報を届けるか、ここがポイント。この地に暮らす人たちの肌感を出していけたら、さらに津南らしさが伝わるはず」などとアドバイス。協力隊の船橋市出身の松本江美子さん(27)は「都会で育った私ですが、田舎に行きたい、住みたいという人が私の周りにも多く、津南をもう少し気軽に知ることが出来ればと思う」などと話し、フリーペーパー的な小冊子を提案していた。
 同プロジェクト講座は5回予定し今後、プロの写真家、編集者など講師に実践を重ね、「A6サイズの冊子」作りをめざす。

シリーズ連載・語り継がねば「日本軍戦闘機、苗場山に墜落」後ページに続く  6月12日号
「なんで、こんな所まで来たんだろうなぁ」。山田義輝さん(96)は、70年ほど前のことを思い出し、話してくれた。
 秋山郷・栄村小赤沢の旅館「秋山館」。山田さんは11代目。娘夫婦が継ぐ。

 「そうだな、終戦からだいぶ経っていたな。熊打ちの衆が見つけたんだ」。それは戦時中、陸軍が擁していた戦闘機(九九式襲撃機)だった。苗場山(2145b)の中腹、通称・平太郎尾根(1850b)に墜落した残骸を偶然見つけた。
 『旧陸軍機体を発見』の見出しで当時の朝日新聞が、それを報じている。『昭和28年5月25日、旧陸軍九九探察機と乗員2名の白骨発見』。津南町の農と縄文体験実習館で発刊する『津南学・第4号』(8月上旬発刊)で証言者・山田義輝さんの談話と共に、この歴史的な事件を掲載する。

 当時、消防団長だった山田さん。小赤沢の消防団を招集、現地に向かわせた。そのひとり福原堅一さん(85)は、苗場山8合目付近、平太郎尾根の墜落現場まで行った。
 「そこは木がなく、芝生が広がるような湿原地だった。主翼がペタッと地面につき、翼にある日の丸を見ようと翼を上げようとしたが、なかなか上がらなかったが、なんとか日の丸を見た」。
 乗員は2人だった。墜落時期は不明だが、年月の経過で乗員は白骨化していた。ただ、操縦席の脇の収納庫に入っていた毛筆の書物から、乗員が松本出身の軍曹、大阪出身の兵長と分かった。共に20代だったようだ。
 「消防団で骨を拾い集め、その場で焼き、冥福を祈った。後で親戚の人が来たが、どういういきさつで苗場山まで来たのか、分からないままだ」
 戦闘機はその後、鉄屑屋が来て、すべて回収し持っていったという。

 近衛兵で終戦をむかえた山田さん。昭和19年7月、招集。松本連隊に入り、そのまま南方に飛ばされる予定だった。「もう戦死を覚悟した。だから、なぜ自分がと、不思議だったな」。人事担当の上官から『教育係をやれ』と言われた。これが運命の分かれ道だった。9月に近衛兵に配属され、皇居の護衛に就いた。
 「あのまま南方へ行ったら、1週間後には空っぽの白箱になって戻っていただろうな」。終戦の10月、秋山郷に戻った。
 秋山館11代目を継ぐ。戦闘機発見は、春先の熊狩りの時期だった。記憶を頼りに話してくれた山田さん。

写真・山田義輝さん

シリーズ連載・語り継がねば「日本軍戦闘機、苗場山に墜落」前ページより続く  6月12日号
前ページより続く 
 
 九九式戦闘機は、両翼に7・7_機関銃、乗員席にも機関銃を装備。苗場山8合目付近は、森林限界の境。消防団で墜落現場に行った福原さんは、いまもその光景を覚えている。
「何年も雪の下になったためか、機体の色は白っぽくなっていたが、翼の下の日の丸ははっきりしていた。主翼以外は壊れていて、よく分からなかったな」。
戦時中の尋常小学校時代、栄村箕作の学校に集められ、『勤奉隊(きんぽうたい)』に入れられ、杉材の供出を手伝わされた。木材を乗せた橇(そり)を大人が引き、子どもたちが後から押す。
 「何に使うかは教えてくれなかったが、鉄が不足するなか、飛行機に使ったんだろうと言われた。終戦間近だったから、特攻隊の飛行機に使ったんだろうかなぁ」。苦い記憶として残る。 

 「それにしても、なんで苗場山まで来たんだろうな。燃料が尽きたのか、それとも…、なんでだろうなぁ」、山田さんは想う。現場を見た福原さん。「あの場所は平らで、不時着しようとしたのかなぁ。真っ白な骨を見た時は、なんとも言えない気持ちになった。まだ20代の若者だったからなぁ」。
      
写真・福原堅一さん
                   (恩田昌美)

県立十日町病院・塚田院長に聞く「総合診療医育成、地域力で支える医療を」  6月12日号 
 高度医療の拠点、魚沼基幹病院が今月1日に開院し、地域医療の安心、3次医療の拠点としての役割が期待される。改築が進む県立十日町病院は2次医療の拠点となり、来年春、外来病棟が開院し、4年後に入院病棟が完成、全体が開院する。魚沼基幹病院と県立十日町病院の連携強化が、地域医療の充実につながるなか、改築が進む県立十日町病院・塚田芳久院長に、今後の地域医療のあり方などを聞いた。

 ―― 魚沼基幹病院の開院で十日町医療圏はどう変わるのか。
 「年間2千5百台の救急搬送のうち2千台余りは十日町病院に来て、慢性期に入ったら地域の医療機関に移る、そういうシステムがすでに十日町医療圏ではできている。魚沼基幹病院は、これからそういうシステムを築いていくことになる。この中で重要なのが『総合診療医』の育成。県立15病院のネットワークで総合診療医の研修プログラム(塚田院長作成)を実施しており、今後は魚沼基幹病院と十日町病院、さらに地域の医療機関でネットワークを作り、総合診療医育成に取り組むことになる」

 ――内山聖院長は魚沼基幹病院で総合診療医を育成すると話しているが、地域医療における総合診療医の役割は何か。
 「今回、魚沼基幹病院にアメリカで勤務していた医師を招いた。内山院長から魚沼基幹病院の方針を聞き、それならこういう医師がいますと紹介したのがその医師。40代で新潟大出身、胸部外科の勉強のため渡米し、内科に転向後、病院総合医になった。総合診療医の先駆け的な存在の総合医だ。いわゆる病院でのホスピタリスト。すべての病気を見て、専門医に振り分けるのが総合医の役割。日本の医師は、救急でトリアージした医師が、ずっと診る形だが、総合医が振り分け、専門医に引き渡す方が専門医にとても、患者にとって良い。彼はアメリカのライセンスを取り、キャリアも積んでいる。若い医師が目標にできる存在である」

 ――4月11日、日本医学会総会の特別企画シンポで「人口減が進む豪雪中山間地の勤務医:救急から在宅医療連携まで」をテーマに講演されたが、何を話されたのか。
 「4年に一度の総会だが、4年前は東日本大震災で中止。だから8年ぶりの総会。医療再編の中での勤務医のあり方、さらに国が進める病院の機能分化がテーマだったが、十日町地域のような中山間地と都市部では違う。東京23区より広い十日町地域には急性期の病院は十日町病院だけで、専門化が進む首都圏の地域医療とでは、そもそも論点が違う。それだけに『かかりつけ医』の存在、総合診療医の役割の重要性が強い。国の一つのルールでは地域医療は成り立たない」

 ――4年後には新十日町病院が全面開院するが、それにより地域医療体制はどう変わるのか。
 「地域が医療ニーズをどんどん病院に求めること。魚沼基幹病院から専門医が十日町病院に来ている。だが仕事(患者)がないと居てもしかたない。医療はどんどん進んでいる。医療現場からのアナウンスメントも必要だが、地域からの医療ニーズが大切で、そうなると医師も変わる。例えば大学病院に毎年通っている人が地元病院を活用することで良い医師の定着につながる。魚沼基幹病院など専門医が近くに居ることは、そういう医療ニーズに応えることになる。同時に総合診療医の育成に取り組み、今は自治医大や防衛医大など地域医療をやっている人にライセンスを出すようになっているが、地域医療をめざす医師を育成するには10年、20年の期間が求められる。そのためにも津南病院、上村病院、松代病院には残ってもらわないと困る。そのためには地域が地元病院を大事にする『地域力』で支える医療が大切。『応援し隊』の皆さんの活動は大変ありがたい。一時期、医師が減少傾向だったが応援隊の活動で増える傾向にある」

 ――看護専門学校の併設が期待されるが、見通しはどうか。
 「4年制では卒業後、首都圏に帰ってしまう学生が多いので、地元の看護師を育てる意味で3年制が良い。実習病院は十日町病院が担うとしているだけで、まだ何も決まっていない。だが看護学校ができ、指導の医師も大学から来て、医師が集まれば核ができ、この地域が総合診療医のメッカになり自前で看護師の育成ができるとなると、いい形が出来ていくだろう。  (聞き手・恩田昌美)

そば殻を次世代燃料に、小嶋屋総本店と近畿大   6月12日号
 石炭コークスや薪に替わる新たな固形燃料、そば殻を活用した画期的なバイオコークスの実用化が、そば処でもある十日町市で始まった。バイオコークスを開発し特許を持つ近畿大の協力を受け、小嶋屋総本店(小林重則社長)が年間40d余り発生するそば殻を原材料に生産。当面はミオンなかさと・プール棟でエヌプラスが事業化しているトラフグ養殖の温水ボイラー用燃料用に販売していく計画だ。

 バイオコークスは、近畿大バイオコークス研究所(所長・井田民男教授)が石炭コークスの代替燃料として開発した新しい木質バイオマス固形燃料。「バイオコークスによる放射能汚染物質の減容化技術」は環境省から除染技術の一つとして認定、またCО2排出量はゼロカウントとされ、環境負荷を低減する新しいエネルギーとしても注目されている。そば殻の活用による実用化は近畿大としても初の試みで、昨年から研究と試作を進め、先月から小嶋屋総本店のそば製造工場内で稼動を始めた。

 事業費は製造機械など約2千万円で、3分の2は中小企業庁のものづくり補助事業を受ける。作業は十日町福祉会が運営する障がい者就労支援施設「なごみの家」の利用者が行い、1日に百〜2百`を生産。販売は1`50円程度を予定し、障がい者の就労の場にもなっている。

 トラフグ養殖の温水ボイラーは冬季間の運転となるため、製造したバイオコークスはストックしていくことになるが、小嶋屋総本店では「そば殻の産業廃棄物を燃料という形で有効活用でき、障がい者の就労の場作りで社会貢献できるものと思っている」としている。

災害復旧、住民の総力で、六箇地区が化繊協会功労表彰   6月12日号
 4年前の豪雨災害で1級河川・羽根川が氾濫し、依然として1人が行方不明の十日町市六箇地区(福崎一久会長)は、来年には災害復旧が完了する見込みで、地元の事業推進への協力に対し、公益社団法人・日本河川協会は同振興会を功労表彰した。

 羽根川流域の被害は、時間雨量120_、24時間で294_という猛烈な豪雨により集落内の幹線道路の六箇橋が流失、JR飯山線羽根川橋も流失し、家屋浸水12戸、農地14・8fに被害が出た。豪雨で増水した羽根川に流され、当時93歳の女性が行方不明のままだ。災害復旧は28年度までに26億9200万円投入される計画だ。

 今回の六箇地区振興会(160戸・約630人)の功労表彰について福崎会長(63)と前会長の徳永寿一氏(71)は「地域の皆さんの協力があり、復旧工事は迅速に進んだ。それを評価いただき嬉しい」と感謝していた。

ヤギが入学、大地の芸術祭・絵本と木の実の美術館   6月12日号
 ○…「メエェェー、新入生です。よろしくね」。絵本作家・田島征三さんの「ヤギ展」関連プロジェクトとして絵本と木の実美術館(十日町市鉢)に6日、ヤギの「しずか」と子ヤギ2頭が入学した。「しずか」は田島さんが東京・旧日の出村で暮らしていた時に飼育していたヤギと同名で、田島さんの絵本にも登場、『ヤギのしずか』としてベストセラーになるなど、ヤギとの縁は深い。「ヤギの乳で育った」という田島さんは「昨年作ったビオトープと合わせ、ヤギも育つ豊かな環境にしていきたい」としずかの入学を歓迎。7月に開幕する大地の芸術祭では同美術館のアイドルとして来訪者を迎える。

 ○…しずかは三条市在住で県営妙法育成牧場の場長など務めたNPО法人全国ヤギネットワーク・今井明夫さんの世話で入学。会場には百人余りが集まって歓迎、子どもたちが草を与えたり、背中をなでるなどして触れ合った。今井さんは「ヤギが食べる草に除草剤は使えません。ヤギと共に暮らすことで、化学肥料を使う近代的な農法では環境にも人体にも良くないことを伝えることができます」と話した。同美術館の前身、旧真田小でも廃校前にヤギ「ゆき」を飼育していたが、そのヤギも今井さんが入学させた。縁あるヤギと同美術館、今月28日まで「田島征三ヤギ展」も開催中だ。

21年ぶり優勝、津南中野球部、郡市大会から中越で県めざす  6月12日号
 21年振りの歓喜―。第61回十日町市・中魚沼郡中学校野球大会は2、3日に笹山野球場と十日町総合公園野球場で開き12チームが出場。津南中野球部(涌井佑輔主将)が21年振りの優勝をサヨナラ勝ちで達成。来月1、2日の中越大会を前に「次は津南中初の県大会出場を」を合言葉に練習に励んでいる。

 津南は1回戦水沢を7対5、2回戦十日町は5対3で、準決勝の下条戦へ。1点を先行するが7回裏に追いつかれ延長に突入、10回表に打線が爆発し一挙6点を奪取し8対4で勝利。決勝は川西。後攻の津南は初回1点を先制され0点に抑えられたが最終7回裏に1点をもぎ取り1‐1に追いつき、準決勝に続き再び延長戦へ。8回表にランニングホームランを許し万事休すと思われたが、ドラマが待っていた。先頭打者から打線が繋がり無死1・3塁となり慌てた相手側のミスで同点に。その後2死1・3塁となり、打席は根津拓弥選手に。2ストライクで追い込まれたが、強震した5球目がセンター前に飛びサヨナラヒット。3‐2で逆転勝ちした。

 全試合、接戦を乗り越えて来た津南。サヨナラヒットの根津選手は「打った瞬間は覚えておらず、仲間が駆け寄ってくれようやく勝ったと気付いた。中越大会でもチャンスはきっちり打てるようにしたい」。一方、投手と捕手を務める樋口主将は「絶対に勝てると信じていた。優勝で雰囲気は最高に盛り上がっている。学校初の県大会出場をめざす」と意気込みを語った。
 メンバーは次の通り。
▼3年=山本龍、涌井佑輔、山田恭平、小林甲兒、根津拓弥、藤ノ木晴哉、志賀世那、上村光樹、内山光大、安藤瑠威▼2年=山田悠斗、桑原優希、涌井泰成、江村賢祐、根津幸太、桑原叶佳▼1年=涌井圭斗、矢口竜也

シリーズ連載・語り継がねば  「女たちの戦争・石橋玲子さん」  6月5日号
あれから70年。「一強多弱」の政治構造が誕生してから、『平和』という言葉を、目や耳にすることが増えている。『平和という言葉を使うような時代は、平和ではない時代。あえて平和と言わなくてもよい時間が流れている時こそが、平和である』。あの戦争を体験した先人の言葉だ。戦後70年を迎えている。だが、その戦後はまだ続いている、いや、「平和」が多用される時代を迎えている。70年が経過する、いまを見る。

『女たちの宣戦布告なのです!』。編集委員の女性たちの精一杯の思いが込められた言葉で、この本は終っている。本のタイトルは『体験記・女たちの戦争―二度とあやまちをくり返せないためにー』。
 北海道生まれ。26歳の結婚を機に、湧別町から津南町の住人になった石橋玲子さん(77)。東京五輪の3年前、昭和36年だった。公民館活動の草創期で、津南町でもさまざまな活動が萌芽しつつあった。その一つが『べんきょうするおかあさんのひろば』。
 戦後色から、経済成長の時代を迎え、『もはや戦後ではない』の掛け声に踊らされるように、国中で経済を求める動きが始まった。『ひろば』は、自分たちの生活の足元を見据えた活動を行い、その思いを文字にした。長いタイトルの『べんきょうするお母さんのひろば』の会誌は、昭和36年に発行を始める。

 今月15日、『ひろば』第345号を発行。各月発行で次号は「8月15日号」。あの日だ。今月末に編集会議を開く。

 「ひろば」の足跡は、『女たちの歩み』でもある。その歩みは、激動という言葉でひと括りにはできない『昭和の時代』である。「みんな言葉では言えない苦労があったし、それを書き残すことには抵抗があったと思いますが、書かずにはいられなかったんだと思います」。
 「ひろば」の歩みには3冊の『戦争』を語った体験記がある。結婚から1年余で夫を戦地に送った妻。敗戦から4年後に帰ってきた夫、抱きつきたい思いを押し殺して姑に従った妻。切々と思いを綴った体験記『女たちの戦争』(1988年刊)。娘として母への思いの丈を込めた『女たちのきずな』(1998年刊)。いま語らなければとビデオ収録もした戦争体験記『語りつくせねども』(2007年刊)。いずれも240ページから350ページの大作、ぎっしり思いが詰まっている。
 
 「ありったけの声を出して言いたいです」。憲法解釈、集団的自衛権、自衛隊派兵…。連日、新聞やテレビで見るこの国のトップ・安倍晋三氏の言葉を聞くと、怒りが込み上げてくる。
 「戦争は絶対だめと、誰も思っているはずなのに、どういうわけか国のトップは、その方向へ強く舵を切っています。なんで、どうして、なんですよ」。『ひろば』の編集会議では、自然とこうした話題が中心になる。集まる原稿も「なぜ、なぜ」と大きな疑問符が付く内容が多くなっている。

 先日、人から聞かれた。「安倍首相、どう思う?」。答えは明確だが、「難しいからねぇ、言えないよぉ」と言葉を濁した。「いやな世の中になってきている」と感じていることは、自分が一番よく分かっている。「あの時代を知っている人は、だれも戦争がいいなんて思っていません。二度と…と強く思っています。だから『ひろば』の活動が続き、自分たちでも、大事な活動だよねと、会うたびに顔を見合わせています」。
 だが、世代間の違いを最近、強く感じる。「関心がないのか、関心があっても関わりたくないのか、今の若い人たちは分かりませんね」。『ひろば』編集委員に大きな世代の開きがあり、40代、50代、60代の編集委員を求めている。

 「いやな雰囲気」は、最近ますます感じるようになっている。「いつか来た道、と言いますが、あの戦時中・戦後、何か言ってはならない雰囲気に、とても似ているように感じます」。時々、3冊を手に取り、ペラペラとめくり、目に留まったページを読むと、ついつい次々と読み進んでしまう。「決して70年前のことではありません。いくら年月が流れても、戦争がいいなんて時代は絶対に来ませんし、来てはならないです。この本、安倍さんに読んでもらいたいですね」。
    ▽▽▽
 『女たちの戦争』『女たちのきずな』『語りつくせねども』の問合せは津南町公民館рO25‐765‐3134。  (恩田昌美)
 

豪雪が育てた「美人」、花出荷始まる  6月5日号
 ○…『立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花』―。今季のJA津南町の津南町切花組合(桜沢彰組合長、38件)の出荷が始まった。初夏の主力作物であるシャクヤクが1日出荷開始。同組合は創立21年目。年間2百種以上を栽培、昨年は過去最高の売上約7千万円を達成。今期は約190万本(昨年170万本)の出荷をめざす。桜沢組合長は「豪雪の影響で他地域と出荷時期がずれ、利益率が高い津南の花き。津南の花は素晴らしいという評価を高め、年間売上1億円をめざしたい」と意欲を話す。

 ○…津南花きPRをと今月12日午前7時〜正午、東京・世田谷花き市場で初の「雪美人フェア」を開く。シャクヤクやユリなどの花サンプルを展示。当日はアンケート調査も行い、答えた方に抽選で特別栽培米コシヒカリ、地酒、芋焼酎などJA津南町ブランド「雪美人」を冠した商品をプレゼント。同日は全国のユリ切花生産農家の家族から選ばれる「リリーエンジェル」の井ノ上由季さん(津南町谷内出身)も登場する予定だ。

10代のまなざし「久保田大地さん・八海高校3年」  6月5日号
 4年前の県境地震では家の壁がヒビ割れ2日間、近くの小学校に避難。4月25日のネパール大地震。その被災地からこの夏、大地の芸術祭に高校生が参加する。妻有の高校生、沖縄の高校生が共に舞台で演じる。地元高校生実行委員のひとり。
 「地震で大変な時に妻有に来てくれます。同世代として自分たちができる限りのことをしたいと考えています」。

 芸術祭作品『青の祭典』(川端美和子氏)は8月2日、まつだい農舞台で発表。高校生実行委員会は松代、十日町総合、十日町、八海の高校生で作る。妻有、沖縄、ネパールの高校生が一堂に集い、伝統舞踊を発表する。

 地元代表で発表するのは松之山・浦田地区に伝わる創作太鼓。小学時代から演奏グループ『うらだ屋』に参加。祭礼や地域行事で演奏。芸術祭では高校生までの10人余で演奏。小学生と中学生の弟と兄弟3人で出演する。「風の音や川の音など、この地域の自然を表現しています」。チームのまとめ役だ。
 高校では生徒会長を務める。小学生の時、祖父がガンで死去。おじいちゃん子だった。「何もしてやれませんでした。恩返しの思いです」。大学進学では福祉を専攻する。

 ネパールの高校生とは手紙で連絡を取る。滞在中の費用支援のため募金活動を始めた。キョロロとナステビュウ湯の山に設置。沖縄、ネパールの高校生40人の滞在中の温泉入浴費用にと考えている。「頑張っている同世代が世界にいることで、自分たちもさらに頑張れます」。
                 (恩田昌美)

芸術祭作品づくり本格スタート  6月5日号
 ○…開幕まで1ヵ月余となり、大地の芸術祭の作品製作も本格化。今回のメイン作品のひとつ、津南町辰ノ口、国道353号線沿いトヤ沢の「土石流のモニュメント」(磯部行久氏)。県境地震で崩落した土石流痕跡を高さ3b、約230本の黄色いポールで再現。蓄電式LEDライトを付け夜も照らし、さらに地元三箇地区の全137世帯の屋号を記したプレートを貼付。現地の最新工法「セル型砂防ダム」と合わせ、自然と相対する人間活動をアート化。地元の三箇地区では「三箇アート盛り上げ隊」(橋隆明隊長)を新たに作り協力。30日は住民ら30人余でポールのペンキ塗りを行なった。参加した橋勇三さん(72、辰ノ口)は「自分たちが作ったものがアートになるのは不思議な思い。完成が楽しみだね」。20、21日に現地にポール設置作業を行う。

 ○…下条地区振興会(村山薫会長)は先月27日に「第6回大地の芸術祭を下条で盛り上げる会」を設立した。同地区は8月22日に今年交流30周年の東京・日野市長や関口市長、地域おこし協力隊参加がきっかけで同地区に定住した住民をパネラーに「下条の農と食と祭りから発信」と題したシンポジウムを計画。翌23日は芸術祭作家とコラボした「下条の食と祭り」を開催予定。村山会長は「さらに会の輪を広げ、来訪者に喜ばれる企画をしたい」と意欲を示す。同地区は第4回から盛り上げる会を組織。前回は約5百人の住民が、作品制作協力やボランティアガイド、案内所運営、レンタサイクル貸出など行い7万人余の来訪者をもてなした。

みんな津南フアンです、北野教授らアスパラ収穫  6月5日号
 ○…「津南は最高だよ」。今年もアスパラ狩りと山菜料理を楽しむため、淑徳大教授の北野大さん始め一行40人余の「ほのぼの会」が先月31日に津南町に訪れた。メンバーは北野教授、新潟薬科大・及川紀久雄名誉教授、前十日町振興局長・桐生裕子県交通政策局長、さらにサッポロライオン社長やホテルオークラ代表など県内外から多彩な顔ぶれが集い、採れたてアスパラと山菜料理、地酒を傾け談笑。北野教授は「リピーターが非常に多い会なんだ。アスパラと自然に癒されるから。魅力ある津南だから、皆ファンになるんだよ」とにっこり。

 ○…20年以上前から続く津南訪問。毎年、町内相吉の涌井九八郎さん方で行っている。深まる津南縁により昨年から「北野大塾」が開講。元日本テレビアナウンサー で淑徳大教授の松永二三男氏、元NHKアナウンサーの青木裕子氏を招き2回実施。今秋の北野塾講師を務める予定の画家・中村麻美さん(アトリエ麻美乃絵主催)は初参加。新潟日報連載の小説『天地人』の挿画、さらに現在は同紙『河合継之助 龍が哭く』の挿画も担当。「津南はさわやかな高原が広がり別世界ですね。アスパラを畑で見られる機会など普通はなく、画家としても嬉しい。この地で教える機会を見られて光栄です」と中村さん。次回北野塾は夏開催に向け調整中だ。

首都圏の若者、農業に挑戦、新システムで  6月5日号
 休耕田を生かせ―。十日町市東下組地区の「下条高原の棚田を守る会」(水落儀一代表)が「2015おらたちの田んぼ!」を初企画し参加者を募集したところ、東京都、神奈川県の20〜30歳代の男女5人が参加。1年を通し稲作と畑作を行う。この事業は、県の震災復興基金を元に平成25年に設立された「NPO法人十日町市地域おこし実行委員会・里山プロジェクト」(高橋治夫統括)が支援。

「里山」は中山間地の振興に取組んでおり、高橋統括は「耕作放棄地解消の新しい手法となれば」と期待している。単なる体験型農業と違い「参加メンバーが地主に地代を支払い、田畑の状況は守る会が伝えるが、作業に来られない時は管理費を地主に支払う。収穫した作物の分配もメンバーが相談して決める」(高橋統括)という内容。先月23日に一行が漉野集落の山あいの田んぼに集合し、地主の水落東一さん(65)らから指導してもらい3畝に田植えをし、24日には里芋などの植え付けをした。東京農工大・大学院生の繻エ良樹さん(25、横浜市)は「地域おこし協力隊が研究対象で、農村の実情を知りたいと思って参加。農作業をやっているうちに少しコツが分かったが、大変な仕事。収穫までの作業はメンバーが調整して行う」と話し、地主の水落さんは「小さい面積だが、ただの農業体験と違い手ごたえがある。結果が良ければ耕作地を増やしてもらいたい」と好感触だった。

 さらに、東下組地区では「里山」と「地域おこし協力隊」の支援で、市の学校給食野菜の自給率向上に向けた取組みを受け、昨年4月に「東下組さわらび学校給食の会」を設立し、ジャガイモ、キャベツなどを生産し2・5dを出荷しており、「守る会」では地区基礎産業の米の直販などを行っている。高橋統括員は「荒れる可能性のある田畑が活用され生産意欲の向上に繋がってほしい」語っていた。
 十日町市の経営耕地面積は、5年ごとに調査されているが、平成17年が面積総数538965e(農家数6192)で、22年が同501930e(同5579)と加速度的に減少しており、対策が急がれる。

笹湯で山開き、秋山郷  6月5日号
 ○…さあ、苗場山に行こう―。1日、秋山郷の日本百名山・苗場山(2145b)、日本二百名山の鳥甲山(2037b)と佐武流山(2191b)が山開き。安全祈願祭は小赤沢・苗場神社で行い、島田茂樹村長、地元観光関係者ら70人余が参列。苗場山の名にちなみ、玉串の代わりに稲の苗を奉納。参集者は見玉不動尊の池田明順住職が熱湯を付けた笹葉でお祓い。さらに同神社特製お守りが配られ、登山者の安全を祈った。

 ○…昨年、苗場山頂の苗場山自然体験センターは約2900人が宿泊。今期目標は3千人の利用。すでに予約が入り、特に夏は好調。運営の苗場山観光・中沢茂社長は「苗場山は日帰りもいいが、夜の星空、朝の御来光も最高。空気が澄んでいれば能登の漁火が見えることもある。ゆっくり楽しんでほしい」。宿泊予約は栄村秋山郷観光協会(秋山支所)рO25‐767‐2202。

百年の計の始まり、世界注目の芸術祭に  5月29日号
 7月26日開幕の第6回大地の芸術祭は9月13日までの51日間、十日町市・津南町の妻有エリアの約2百集落に新作180点を含む380点の作品が展開される。総合ディレクターの北川フラム氏は、「とてつもないモンスターになっている。この地域の100年の計の出発が始まっている」と語り、過去5回では見られない動きも加わり、今回の6回展は、想像を超える世界的な芸術祭になると示唆している。

 特に特徴的なのはアジア圏の作家が増え、「アジア・プラットホーム・プロジェクト」を打ち上げている。それは「アジアでは香港、台湾、中国とも日本はつながっていた。アジアの国々は日本を参考にしている。それは日本が偉くなったということではなく、西洋とのつなぎとして日本との関係が大事と感じているようで、台湾は大地の芸術祭を地域づくりのモデルにしている」。北川氏の著書が中国、韓国で翻訳され、大きな関心を呼んでいる現実がある。
今回の芸術祭の中心的なイメージ作品は、津南町辰ノ口の土石流災害と記念碑。「人間と自然、文明との関係を明らかにする、これを我々は美術としてやってきている」。その象徴的な作品が4年前の県境地震で大崩落した同地の現場。十日町地域振興局の支援もあり、最新工法の「セル型ダム」を、第1回参加作家の磯部行久氏が作品展開する。北川氏は「この地の人たちは自然との関係の中でここに暮らしてきた。その人たちが、どういう場所で、どう生きてきたか、それを検証する典型的な場所」と話す。

『人間と自然・文明と関わる術こそ美術』の芸術祭理念の作品が380点展開する。「自然と人間の関係を美術と考える。20年前には問題にされていなかったが、21世紀の美術は、これまでの美術をひっくり返す美術が、ここ妻有で行われている」と北川氏は語る。
今回、注目の拠点が津南町の旧上郷中学校。アーティスト・レジデンスに約2億円を投入して全面改修。すでに体育館は演劇など作品発表の空間が完成。150人余の観覧スペースも整う。拠点は「上郷クローブ座」と命名され、芸術祭期間中、多彩な劇団公演や食をテーマにした作品展開を行う。地元上郷地区振興協議会が全面協力し、食の作品では地元「おかあちゃん」グループが、作品演者として食の提供そのものを作品化している。
    ▼▼
 芸術祭パスポートと芸術祭ブックなど発売を開始した。十日町市・津南町住民限定販売を行い、「地元限定前売2千円(期間中2500円)」でパスポート販売中。購入は高校生以上の家族枚数分。小中学生は無料パスポート配布。通常前売は3千円(期間中3500円)。問合せは両市町観光協会、芸術祭事務局へ。


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