未曾有の言葉そのままの大災害となった東日本大震災。その翌日早朝、長野新潟の県境を震源地とする震度6強の地震が発生。あれから今月12日で4年が経過する。復旧から復興へ。ここ被災地は震災跡が消えつつあるが、住民の記憶の中からは消えない。震災発生時、ふるさとから遠い千葉で震災を知り、生まれ育った家を失った20代の女性の思いを聞いた。
あの日、千葉市の学童保育施設で10人の子たちと一緒にいた本山実里さん(26)。「ここが震源地だ、と思うくらいの激しい揺れでした」。2011年3月11日。東日本大震災。激しい余震が何度も続き、不安な夜を迎え眠りについたが、翌早朝3時59分。再び強い地震。携帯の地震速報は『震源地、長野県北部』だった。
すぐに松之山の実家に電話。幸いすぐに通じた。電話口の母が言った。「家が崩れそうで、みんなで避難しているところだよ」。えっ、耳を疑った。家が壊れたの? 家には両親、祖母、妹と弟がいた。幸い皆無事だった。
信じられない思いで2日後、松之山へ。家族は避難所の旧浦田保育所に。母や妹弟の顔を見て、それまで抑えていた思いが一気にあふれた。「抱き合って泣きました」。
この年の3月は節目の春だった。千葉大教育学部を卒業、大学院進学を迷っていた。小学6年の弟は卒業の春。さらに大雪で春が遅い年だった。
倒壊寸前の家が取り壊され、新地になった我が家跡。「家があった頃の記憶がなくなってしまうのが怖く、前を通っても半年くらいは見られませんでした」。喪失感の大きさを感じた。
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震災から4年。我が家を失った想い、時間の流れで自分を振り返るなか、あふれる言葉を詩にした。知人の音楽家が曲をつけた。4年目の12日、知人の店でライブを開き、『あの日がおしえてくれたこと』を歌う。
「あの頃、絆という言葉がいろいろな場面で言われましたが、私の思いは、『そんなきれいごとではない』という想いの方が強かったです」。迷いを吹っ切り千葉大大学院へ。小さい頃から何かを書くことが好きで、絵本作りにも取り組んだ。
「私は何かあると人に相談するより、まず文字にします。それにより客観的に自分を見ることができますから」。小さい頃から日記を付け、詩も書いてきた。
大学2年の時、出会いがあった。「面白い人だなぁが第一印象ですね」。大学院の先輩で、当時は近代日本文化史の研修者であり、音楽家でもあった『高橋在也(ざいや)』さん。「本名なんですよ」。同じゼミで時々顔を合わすようになり、詩を時々見てもらったりした。
ピアノなど鍵盤系の楽器や弦楽器も演奏する高橋在也さん。東京農工大の非常勤講師でもあり、千葉市美術館の展覧会の音楽創作も担当。34歳ながら、その顔は多彩だ。
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3・12。地震の年の5月。「言葉が自然に出てきました。地震が何かを教えてくれたような感じでした」。その詩は『ゆうがたの屋根のうた』。夏に高橋さんを含めゼミ仲間と家に帰り、この歌を歌ったら母が泣いた。失った我が家の情景が、言葉になって、曲になっている。
西の空が熟してきたら/湯気のこぼれるあの窓に帰ろう/誰かが 灯した明かり/ぼくのかえるみちしるべ
あぁぼくが帰りたいのは/瞼の裏の青い屋根/このまま目を閉じ て歩こうか/懐かしいあの路を
人は言葉にならない言葉を発する時、『あぁ』が出る。詩『わたしもあぁにこめてみる』は、まさにその気持ち。
「言葉では、うまく表現できないふるさとへの想いを、詩というツールで、その場にいる人たちと共有できたらと思います」。12日夜7時、『3・12メモリアルライブ〜あの日がおしえてくれたこと』を、地域づくり仲間の高木千歩さんの店『ALE』で開く。「父は在也さんの一番のファンです。喜ぶでしょうね」。
(恩田昌美)