秋田・阿仁マタギが秋山郷に伝えた「熊狩り」。江戸期から続く歴史的な民俗文化。雪消えを迎え「春熊」が始まっている。2年前に狩猟銃を返上した藤ノ木宣重さん(77)。秋山郷の春山のどこに、いつごろ、熊が出てくるか分かる。「今は春マタギだけだが、かつては『寒マタギ』といって、雪深い1月、2月に山に入った」。民俗文化映像研究所が撮った映画『山に生かされた人々』に出てくる熊猟の世界そのまま。20歳から始めた熊猟。秋山郷に伝わる暮らしを語ってくれた。
祖父・音蔵の語りと、42歳で急死した父・政五郎の熊猟を聞きながら育った宣重さん。阿仁マタギが伝えた熊猟は、親戚から教わった。それは厳しい秋山郷の冬を乗り切る生活の術だ。
『死の行軍』で知られる『203高地・八甲田山』。あの隊員の中に、マタギ出身者がいた。「多くが寒さと飢えで凍死したが、マタギの教えを知っていた人たちは、猛吹雪と寒さの中を生き抜いた」。祖父の親戚から聞いた話に引かれた。
小松原や苗場山の高山には針葉樹のコメツガ、アオモリトドマツ、ネズコがある。その幹に『サルオカゼ』という苔に似た植物が繁茂する。
「1月、2月の真冬の山は、深い雪と吹雪や霧で方角が分からなくなる。下手に動けば死んでしまう」。吹雪で方角が分からなくなった時、マタギはこのサルオカゼを木から取り、ズボンの中に押し込めて防寒し、じっと寒さに耐える。緑色のサルオカゼは、雪を溶かした水に浸すと海草のようになり食べられる。コメツガやトドマツの葉は火であぶり、長靴の中に入れると発熱する自然のカイロだ。
言い伝えは守る。『北風を背にするな』。雪山では風が雪尻(せっぴ)を作る。北風を背に進むと、いずれ崖の雪尻から谷に抜け落ちる。「進むなら北風に向かうこと」。この教えに従い何度も助かった。
「真冬の熊猟は命がけだった。だがマタギの教えを守れば大丈夫。それでずっと続けられた」。今は猟友会という市町村単位の組織があり、狩猟許可も市町村。長野県は「マタギ文化継承」を認め、熊の捕獲数が特別枠になっている。だがマタギ文化は、実は秋田・阿仁から津南町大赤沢に伝わり、それが隣接の長野・栄村小赤沢に伝わった。
宣重さんは、昭和47年4月30日、140`の大熊を仕留めた。貴重な胆嚢を乾燥した「イ」の実物大の墨拓を大切に保存している。「これが一番の大物だったな。教えの通り3bまで近づいた時、仕留めた」。生で123匁、乾燥して29・7匁。大人の手の平がすっぽり入る大きさだ。熊は2bを超える大物だった。
「毛皮、肉、胆嚢など、それぞれ買い取る仲買人がいて、俺たちが戻ってくるのを待っているんだ」。売上はすべて均等割り。40年間の熊猟、危険な場面にも遭ったはず、と聞くと、「そんな危ない場面はなかったな。しっかり教えを守ったからな」。
いちばん危険なのは『ハンヤ(半矢)』。江戸期からの言葉で、熊に矢が半分刺さった状態をいう。つまり急所をはずし、手負いの熊になった状態で極めて危ない。マタギの教えは、仕留める急所、仕留め方をしっかり伝えている。そして「山の神への感謝」も。
真っ白な苗場山が見える自宅わきの作業小屋で時々、狩猟仲間や地元の仲間に声をかけ、囲炉裏を囲む。「昔話になるが、今も役立つ話が、マタギの伝えには多いな」。山に生かされた人々、その語り部だ。 (恩田昌美)