人が暮らす地域では国内最大規模の地滑りとして日本の自然災害史に刻まれる「松之山大地滑り」。昭和37年春に発生し、松之山の中央部の7集落、約850fが動き、民家や公共施設など380棟が倒壊するなどの大被害を受けた。1日に2、3a動く地滑りは3年間ほど続き、当時の新聞は『一寸刻みの恐怖』『明日のない町』など連日報道し、「松之山地滑り」が全国に知れ渡った。あれから50年。当時の惨状を知る世代が減少するなか、松之山の住民グループや十日町市、新潟県が連携し、「世紀の大災害を後世に伝え、防災の教訓にしたい」と実行委員会を昨年6月結成。講演会や子どもたち向けの副読本「地すべりの話」を作成。今月末には集大成の記録集「大地と共に生きる」を発刊。地滑りの詳細記録や貴重な写真、体験者の証言集を収録したDVDも作成。後世への貴重な防災メッセージになる。
街中央部の道路沿いで商店経営する竹野屋・田邉ハルさん(93)は大正9年生れ。地滑り発生の昭和37年は働き盛りの43歳。今は長男・慎一さん(66)が米販売する。
「50年たったんかね、昨日のことのように覚えている。(当時の新潟県知事の)塚田知事、塚田十一郎さんが家に来たんだ。『何がほしいですか』と聞かれて、『助けて下さい、この地滑りを止めて下さい』と頼んだんだよ」。
地滑りは昭和37年春、松之山で一番高い大松山(737b)の麓、兎口集落で始まった。雪消えと共に水田に亀裂と陥没が見られ、水梨集落にも広がり、道路に亀裂が入るなど被害が拡大。
「ドーンというすごい音を聞いた。後で聞いたが、断層が切れる音だったようだ。あれから地滑りが始まった」。十日町市松之山支所・市民課長の中島健男さん(60)は鮮明に覚えている。三省小学校4年の時だった。この大音響は田邉慎一さんも聞いている。「隣の鉄工所のガスボンベが爆発したのかと思った」、それほどの大音だった。
国県が総力を挙げて対策に乗り出した。調査で東北約2・4`、長さ3・6`の約850fが動き、地下水の影響で地下11bから20bの所で地滑り発生が判明。現場に地滑り防止の20b余の鋼管パイプを打ち込み、地下水を汲み上げる集水井戸を10ヵ所余に掘り対応。だが1日に2〜5aの地滑りは3年余り続き、住民は傾く家屋をジャッキで持ち上げたり、引き裂かれる母屋から家財道具を運び出すなど対応に追われたが、約380戸が崩壊するなど大きな被害が出た。
食料品や配給米などを扱う竹野屋・田邉ハルさんは、夫・辰三郎さん(20年前に死去)と「動く家」で地域の人たちのために商売を続けた。「米の配給を止めるわけにはいかなかった。住めなくなって道路の反対側に移ったが、県から見舞金10万円がきたばっかで、みんな自前で出したんだ」。
この地滑りで松之山の人口は年毎に減少し、過疎に拍車をかけた。だが一方で、『地滑り技術の発祥の地』でもある。昭和33年に制定の「地滑り防止法」。その直後の大規模地滑り災害だったため、当時の国の最高防止技術を導入し、松之山が実証実験の地になり、今の通じる鋼管杭や集水井戸など地滑り対策工法に大きく貢献した。現在も集水井戸は稼動し、地滑りは定点観測が続く。
今月末に発刊の記録集「大地と共に生きる」は、旧松之山町の全855戸に配布。貴重な写真や証言集のほか、地滑りの最中の昭和39年3月、当時の松之山小学校、牧田太平校長がまとめた全校児童の文集『動く町』の証言も掲載する。地滑り地域の850fは今も地滑り危険地域に指定されている。
(恩田昌美)