今冬初の真冬日となった15日。栄村青倉の集落内道路は車の輪だちが残るほか真っ白。高橋てふさん(82)が暮らす公営の震災復興住宅は、その道路から10bほど中に入る。「夏場はいいが、この道つけがちょっと大変なんです」。この日も、朝と昼、スコップで除雪しながら道つけ。
昨年11月26日から完成したばかりの住宅に暮らす。「本当に皆さんの世話になっています。おかげさまで、やっと落ち着いたかな、という感じです」。
震災から3度目の冬を向えてえる。
3・11、東日本大震災。その13時間後の翌12日午前3時59分に発生した「長野新潟県境地震」。震度6強の激震の直撃を受け、高橋さんの高床式3階住宅は「大規模半壊」の被害を受けた。
前日の東北の津波被害を見て、同じ集落に暮らす長男夫婦の娘が様子を見に来て、泊まってくれた。その夜だった。
「最初、何が起きたか分からなかった。孫娘の『地震だよー』と声で分かったが、部屋の壁がみんな落ちて、そのホコリでよく見えなかったが、じいちゃん(夫)と一緒にとにかく外に出た」。何度かの強い余震のなか、夜着のまま隣の同年代と抱き合いながら幹線道路に出て、車に乗り合って村役場へ行った。
震災を知った長野市の次男がすぐに来た。てふさん夫婦は長野へ。40日間余り次男方に留まり、被災の自宅片付けのために、同じ青倉ながら被害が少なかった長男の家へ。
「心労が重なったんだろうか」。同い年の夫・幸太郎さんは、栄村に戻り5日目、脳内出血で倒れた。救急搬送、半身不随の後遺症が残った。
「この状態では、とても仮設住宅には入れないので、高床式の長男の1階車庫を改造し、そこを住まいにしたんです」。車イス生活になった夫を支え、地震の後片付けなどに取り組むが、今度は自分の膝の具合が悪くなった。震災の翌年春、膝の手術。震災住宅が完成後、夫は福祉施設に入り、住宅に独り暮らし。 「もう元気に動けなくなったな。それでも夏は前の家跡の畑で野菜作りをしているんだよ」。長男家族は3日に一度は顔を出す。隣人や百bほど離れた別の震災住宅の仲間とお茶飲みが日課だ。
「これから3月までは、お茶飲みが仕事だね」。自作の野菜での漬物が炬燵の上に並ぶ。「やっと年賀状を書き終えたんだよ」。55枚の住所を手書きし、「ひと言、添えるんですよ。書くのは好きなんでね」。村保健師が年3回ほど開く「にこにこ教室」や地元の人たちが企画するお楽しみ会、長野市や飯山市のボランティアグループの交流会の集いなど、「いろいろな行事を計画してくれています。25日にはクリスマス交流会もあるんだよ」。
ようやく落ち着いたという高橋さん。青倉にある震災住宅10世帯ありうち9世帯が独り暮らし。「冬が一番心配だね。外に出る機会が少なくなるし、雪ばかり見ていても仕方ないからね」。
震災前まで、バイクで駆け回っていたが、震災後、バイクは手放した。「地震でいろいろあったが、こうして暮らせていることは、ありがたいことなんですよ」。3度目の冬。正月に孫や曾孫の顔を見るのを楽しみにしている。