年度末の3月30日、春総会。久々に歌が出た。区画整理された棚田が千曲川まで広がる栄村小滝。「みんなが集まると、小滝では必ず歌が出るんだ」。だがあの震災以降、この2年間、集まっても歌は出なかった。前年度区長が歌い、それ受け4月からの新区長が歌った。震災の年に区長だった樋口正幸さん(55)も、今年は歌った。歌は手拍子だけ。カラオケは使わない。「昨年までは笑うことさえできなかった。やっとだよ」。
2年前の長野新潟県境地震。小滝は一時孤立した。集落から対岸の国道117号に通じる唯一の村道が、震度6強の激震で発生した大規模な雪崩と土砂崩れで通行止め。救援のヘリで対岸の横倉に避難。震災前17戸あった家並みは、この2年間で13戸に減った。
震災から1年後の2012年の春総会。出席したのは8人だった。「あの出席数を見て愕然とした。決定的に人がいなくなった、そう感じたし、地域の力が落ちてしまう、そう感じたんだ」。
その年の秋の共同作業も集まったのは8人。「これまで通りは、どう考えても無理と感じた。危機感をひしひしと感じたんだよ」。
今年3月末、公務員を辞めた。栄村職員36年に終止符を打った。実は前から考えていた。「震災の年に辞めようと思ったが、震災復旧の担当になり、途中で投げ出せないと思ったんだけどね」。退職者挨拶で、若い職員を見て話した。「子育てはすごく楽しい。地域づくりも、これほど面白いものはない」。伝わってほしいと、念じて話した。
兼業農家の村職員時代。約60eの田を耕作。震災後、作り手がいなくなった田を集落で受け、自分も受けた。昨年は3倍の1・8fに。村職員の業務が終わる夜9時、10時頃から田んぼ仕事に取りかかり、朝は4時起き、出勤まで田で働いた。今年はさらに不耕作田が増え集落で分配。『小滝の田を守る』ために今期は2・3fに。19年前に作った「小滝農業改善組合」で田植えは共同化で行う。
集落から千曲川に広がる約7fの田。震災でほぼすべてが被害を受け、今期、ようやく全面積が作付けできるようになった。
「実は、小滝は3百年前、一度、村人皆がこの地を捨てて越後へ逃げ出したことがある」。生活用水がなく、住人たちは苦労に踏ん切りをつけた。だが当時の庄屋が『水路を作るから戻ってほしい』と私財を投じ、水路を作る。それが今の『小滝せぎ』。
大雪が続いた59豪雪後の昭和63年、別の水路を引き集落内の各戸に雪消し用の水を回し、平成4年には集落内に除雪車を入れるために道路を拡幅した。
先人たちは節目、節目に『この地に暮らす、この地で生きていく』という事業に取り組んだ。「今回の震災も同じだ。ここでまた生きるための事業を作り出せば、これから3百年後も小滝はあるはず。そうやってつないで行く、それが今を生きる俺たちの役目だし、やりがいに通じるはす」。
樋口家には「マサユキイズム」なるものがある。子育てを存分に楽しむ、小滝の自然をまるごと体感し遊びまわる。男3人兄弟。父親と遊んだ小滝の自然が、たっぷり身に沁み込んだ。「自分の子も、こっちで育てたい。親父がやってくれたように自分の子を育てたい、と言ってくれたんだよ」。息子の言葉に『よしっ』と思わず叫びそうになった。「ちゃんと感じて、見ていてくれていたんだなぁ…」。
「小滝米」ブランドが震災以降、首都圏などで評判になっている。『小滝の米はうまいね、山菜もうまいね、人もいいね』、決まって答える。「そうでしょう。みんな雪のおかげだよ」。
震災後、独自に小滝復興プロジェクトチームを立ち上げ、すべての世代が加わり、復興計画作りに取り組む。信州大・木村和弘名誉教授のアドバイスも受ける。だが、不安もある。作った計画を行政がしっかり受けとめられるのか。栄村震災復興計画には、同計画を実現するための基幹組織として『復興推進委員会』の設置を求めている。だが設置の動きはまだ見られない。
毎年8月16日が夏祭り。「毎年、大勢の人たちが集まる。300年後につながる小滝の姿でもあるよね」。