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2011年07月の津南新聞「トピックス」

過去の津南新聞トピックス
「感じるまなざし」、津南ひまわり広場満開  7月29日号
 ◎…「あなたを見つめる」。あの大輪で見つめられたら、どんな屈強の男でも勝ち目はない。それが50万本咲く津南町ひまわり広場。花言葉は「熱愛」「敬慕」、そして「あなたを見つめる」。7月前半の高温が幸いし、オープンの23日は満開で来場者を歓迎した。日曜の24日は県内外から8百台の駐車で混みあった。好天のため開花スピードが早まり、すでに第一畑は終了し、第二畑が満開だ。
 

 ◎…「遊び心」で始まった津南のひまわり。もう22年目。そのひまわりが今年は主人公に。福島原発事故で拡散した放射性物質。チェルノブイリ事故で実証されたひまわりの放射性物質の吸収力。津南町のNPOみずもりファームは、県内や福島のNPOと連携し、ひまわり栽培を広める。ニュー・グリーンピア津南近くの「ひまわりガーデン」は6日開園。原発汚染地を救う「ひまわりのまなざし」を感じる。

新ライフスタイル 中国料理40年、東京から栄村へ 渡辺俊男さん  7月29日号
 あの言葉から、すべてが始まった。4年前の正月。東京新聞の1面に載っていた。『絆、結い』の言葉に続き、 『一人一人が自分の存在価値を持って生きる』。栄村長、高橋彦芳の言葉だった。18歳から中国料理に取り組み、この道40年の渡辺俊男(58)。日記代わりのノートに書いた、あの言葉を、いまも時々見る。
(敬称略)


 8月のお盆。栄村は連日、どこかで祭りが繰り広げられる。「おかげ様で、お祭り料理の注文が入っています」。東京世田谷で27年間、『樓蘭』を経営し、昨年12月10日、中国料理「栄村 樓蘭」を開店した。あの長野新潟県境地震を経験し、栄村が、さらに好きになった。

 4年前。「ちょうど料理人仲間と、俺たちもそろそろ年だよなぁー、スローライフを考える頃だよなぁー、なんて話していた頃です」。あの言葉の栄村。初めて聞く村の名前。地図を開いた。
栄村初訪問は秋山郷だった。村役場へ行く。定住促進係職員が村内を案内。国道117号沿いの空店舗など見て回ったが、ピンと来ない。「箕作に来た時、ここだな、と直感的に思いました。家々のわきに小さな川があり、集落を田んぼが守っている感じでした」。それから春夏秋冬、栄村を訪れ短期滞在。ムラの暮らしの雰囲気を感じ取った。


 東西の交易の要所で、旅人が足を休めるシルクロードの都『樓蘭』。この名を店名にする中国料理店は、東京では人気店が多い。自分の店を持つ前、修行したのが自由が丘の樓蘭。「あの店は国内で最初に樓蘭とネーミングした店です。自分が店を持つ時は、この名前にと決めていました」。銀座樓蘭、中目黒樓蘭などはよく知られる。「これに、栄村をつけました。この村をアピールしたい、という思いです」。中国料理三傑の王春海、親方と慕う佐川勇治に師事し、本格中国料理人として40年。



 3月11日午後2時過ぎ、東日本大震災の揺れを感じた。ちょうど雑誌の取材を受けている時。「恐いねー、と話していた、その夜です」。

 翌12日未明。激震は突然来た。オープンから3ヶ月。食器類がほぼすべて割れ、店内に散乱。地震発生から3日間、車中泊した。4日目に避難所の箕作公民館へ。10日間の避難所暮らし。「ここの人たちは、絆、結い、なんですね。あの避難所暮らしで、地元の人たちと親しくなり、絆の強さを感じています」。
忘れられない情景がある。震災で住宅が全壊、皆で箕作を去るある家族。その日の早朝。「6時前だったと思います。見送る地元の人たち60人ほどが出て、子どもたちも集まって、村を去る家族を見送りました。あの言葉通りのムラなんだと、じーんときました」。
震災後、4月1日に店を再開。1週間、ワンコイン(5百円)食べ放題バイキングを提供、大賑わいに。震災取材のマスコミも訪れ、口コミで樓蘭が広がった。「皆さんの情の深さを、震災で実感しました」。


 息子、娘たち3人は東京で暮らす。震災後、相次いで来てくれた。整体師の次女。地元の家々を回り、整体ボランティアをした。「娘が感激していました。『こんなに喜ばれて、いいの』と。娘は、ここの人たちから大きな自信をもらったようです」。


 自慢の中国料理を食べてほしい人たちがいる。「先日来ていただいたお年寄りが、ラーメンに手を合わせてから、いただいていました。なかなかお店には来られないお年寄りに、なんとか食べていただく機会を作りたいですね」。
新潟生まれの俊男、東京生まれの幸子(62)の二人三脚。「雪は、少しは慣れました。ここにお店を開き、後悔は全くないですね」。

 シリーズ連載「新ライフスタイル」は恩田昌美が担当しました。

震災で連携、津南まつりに栄村からも   7月29日号
 ◎…被災地の住民同士が夏夜を笑い、元気出そうと「復興支笑ん」がテーマの第32回津南まつり。仮装パレードに4組85人、民謡流し15組4百人余が参加。地震被害の栄村に無料シャトルバスが走り、栄ふるさと太鼓、栄太鼓も特設ステージで演奏、両町村の連携をアピール。参集は国道、町第二駐車場のメイン会場を埋める約6千5百人(前年比千人増)。栄村北野からの桑原武幸さん(64)は「久しぶりに津南まつりに来た。栄太鼓はやっぱり栄村のシンボル。聞くと元気が出る。地震で大変な思いをしたが、負けてられないな」と語った。
 

 ◎…3年前から20代〜40代の地元有志が主体で企画運営する同祭り。メインスタッフの幹事会(福原茂宝幹事長、9人)が5月から協議。地震被災地の復興を思い「一緒に元気だそう」と栄村へバス運行、チラシ配布など積極的に取り組んだ。夫の津南転勤で4月から町民の幹事会メンバー澁谷真悠さん(26)は「お祭、大好きです。津南の方は元気ありますね。特に本番のパワーが凄い。逆に元気を貰いました」と感激。幹事会は津南まつり協賛企画や協力者など募集中。希望者は町観光協会まで。

地元要望で架け替え実現、震災の中条橋   7月29日号
 県境地震で被災し、両岸の橋台が沈下、損傷した栄村青倉の村道「中条橋」の架け替えが決った。今月初めまでの国の災害復旧2次査定で全面的な架け替えを国は決めた。今後、実施設計に入り、9月には着工し、降雪前には完成させたい方針だ。


 中条橋は、旧国道で昭和58年10月に完成。旧国道は青倉集落内を縦貫していたが、現在の栄大橋、青倉橋、北沢橋の完成で国道バイパスができ、旧道は村道となった。今回の地震で中条橋は、両岸の橋台全体が1b近く沈下し、これに伴い、橋桁と橋台の接続部分が大きく損傷し、地震発生の3月12日以降、全面通行止めとなっている。


 村では、災害復旧での架け替えを要望していたが、国は青倉集落中央から国道へのバイパス道路を構想したが、その場所に墓地があるほか、青倉の中条橋側の北向地区の不便さが増すことから、全面架け替えを強く要望し、国の2次査定で架け替えが決った。総事業費は約4億円を見込み、村負担は約5%前後と見られる。
このほか、今回の震災で村道が各所で崩落し、村道全体の震災復旧は約16億4千万円を見込んでいる。被害が大きいのは極野―鳥甲線約9千万円、横倉―青倉線約8千万円、小滝―志久見線役6千万円、青倉―今清水線約5千万円、平滝―野々海線約4700万円などとなっている。


 この約16億円の災害復旧も同様に村負担は約5%。約8千万円となり、災害復旧が村財政を圧迫する。今後、特別交付税などで措置されるが、財政難の自治体にとって大きな負担となっている。一方、地方交付税の交付額が決まり、同村は昨年の国勢調査で273人減少しているため、昨年1・645億円だったが、今年は1・547億円、7800万円の減額となるなど、財源減少が村行政に影響する見込だ。

友好交流の韓国から金郡守ら来町、来月は津南から小中学生訪問  7月29日号
 友好交流13年の韓国ヨジュグン(驪州郡)から一行6人が23〜25日、津南町を訪れた。昨年6月就任の金春錫(キム・シュンソク)郡守は初来町。「人は10年交流が続けば、その人の心が分かる。交流が続く津南は兄弟よりもっと近い関係だ」とさらなる交流促進を求めた。
 
 
 金郡守らは竜ヶ窪、なじょもん館、県境地震被災で立入禁止が続く上郷中校舎など視察し、縄文文化や地震被害など熱心に耳を傾けた。金郡守は暑さ対策に上着を脱ぐように勧められたが、「韓国で上着を脱げというのは、仕事を辞めろという意味」など文化の違いを紹介。さらに「自然豊かで生活環境が良い。農業に若い担い手がいて、益々発展するだろう。津南と共に発展したい」と話した。
 
 さらに、初めて津南を訪れた人がいる。大沼美津子さん。山形、大江町出身、ヨジュグンに嫁ぎ19年目。姉妹締結から継続して通訳を務める交流の要だ。「初めて津南に来られて嬉しい。信濃川や農地が多いのに驚きました。津南とヨジュグンの架け橋となり、両地のつながりをもっと深めたい」と笑顔を見せた。


 なお来月2日〜5日の津南からの交流ホームスティは過去最多の小中学33人が参加。桑原正教育長、高橋秀幸企画財政班長ら6人が同行。新潟空港からヨジュグンに飛び、現地家庭に泊まり交流する。

津南の女性グループが農産加工品開発に挑戦 7月29日号
 おまかせ下さい、ただいま津南の農産加工特産品を開発中ですー。ひと味違うと市場評価が高い津南野菜などを素材に、女性グループによる特産開発が始まっている。40代から60代の11人が全員、新潟県農村地域生活アドバイザー認定者。「津南町特産品開発プロジェクト」事業で、2年間をかけて商品開発に取り組む。初会合の25日、メンバーが野菜などを使った試作24品を持ち寄り、試食し意見交換した。


 試作品は、夏野菜の代表「夕顔」をショウガ醤油に漬けたもの、サツマイモ芋納豆、エゴマ味噌などオリジナルな手作り品が並んだ。JGAP指導員で商品企画・販売のアソシエイト社長でアドバイザーの松田恭子氏は「誰にどう提供するかイメージ化が大切」と女性らの取り組みに期待を寄せた。

 農産物の加工品開発は、これまでにも団体や事業所などで取り組み、女性が立ち上げた株式会社ふれあい工房(中沢伸子社長)の「ふれあい味噌」、漬床「二五八」ばどを俵進化。一方で民間でも、地元素材を活用した漬物など加工品を開発、販売しているが、「これが津南の特産」の決め手を欠いているのが実情。同プロジェクトは町の活動助成を受け2年間取り組む。

 同代表で製造免許を持つ島田玲子さんは、今回の取り組み意義を話す。「やっとプロジェクトができたという感じ。時間はかかるかもしれないが、このチャンスを生かしたい。販売対象をどうするかなど課題も多いが、津南の素材にこだわり、商品開発を実現したい」。

 計画では、1年後を目標に10品ほどに絞込む。その分野は「漬物系」、「スープ・汁系」、「惣菜系」の3部門。次回8月30日にも試作品を持ち寄り、さらに具体化に取り組む方針だ。

△△

 ◎…この日の試食会には、きゅうりのたまり漬、さつまいもかりんとう、さつまいも茶巾しぼり、干しワラビの酢醤油漬、イト瓜の煮物、揚げ出しナスなど家庭料理をベースにした24品が揃った。松田アドバイザーの評価を受けたのはフランス料理系の「夏野菜のラタトゥイュ」。三浦富恵さん(赤沢)の作品。「自家野野菜7、8種を、水を入れずに煮込み、塩、コショウで味付けしただけ。トマトが決め手です。温かくても冷たくても美味しい。我が家の夏の定番です」。キャベツ農家の滝沢綾子さん作品は「キャベツの重ね漬」。湯通ししたキャベツを3、4枚重ね、その間にキュウリ、ハムを挟み重石で漬け込む。「数時間で充分ですが、一昼夜ですとさらに味わい深くなり、しんなりし、美味しいです」。

 ◎…町が事業化した初の特産開発活動。直場所や直販など、多様な活動に取り組む女性メンバーたち。試食会に参加した上村町長は「この活動そのものが力になる。津南を代表する味わい深い特産品が必ずや生まれるだろう」と期待した。

飯山線踏切死亡事故、現場責任2人書類送検、JR東の会社責任問わず  7月22日号
 JR東日本の刑事責任は問わず―。津南町上郷寺石の飯山線・大根原踏切で今年2月1日、現場のJR誘導員に従い踏切に入ったライトバンと列車が衝突、男性1人が死亡した事故で、県警捜査1課と十日町署は19日、JR東日本新潟支社の作業責任者(52)と副責任者(50)の男性社員2人を業務上過失往来危険と業務上過失致死容疑で地検長岡支部に書類送検した。警察では管理監督責任があるJR東の刑事責任はないとして、会社への刑事訴追はしない方針だ。
 

 事故当日、2人は同社社員3人と共に朝から遮断機が降りたまま警報機が鳴り続ける故障の同踏切で復旧作業。現場は3b余の積雪で、踏切も2b以上の雪壁で左右の見通しが悪かった。3人が昼食で現場を離れた時、送検された2人は遮断機の両側で交通誘導。通りかかった千谷市の団体職員、田村哲三さん(当時59歳)運転のライトバンを2人は遮断機を持ち上げ踏切内に誘導。その直後、列車が運転席を直撃、脳内出血などで田村さんは死亡。送検容疑は田村さんを誤誘導で死亡させ、列車の運行に危険を生じさせた疑い。2人は容疑を認めている。
 

 十日町署では「被疑者に逃走や証拠隠滅の可能性はなく在宅で捜査を進めた。(JR東の)社内規定通り業務を行なっていれば発生しなかった事故。企業としての刑事責任は問うことはできないと判断した」(小川政仁副署長)とする。一方、JR東は清野智社長名で「社員が書類送検された事実を厳粛に受け止め、二度と事故を発生させないよう全力で取り組む」との談話を19日に発表した。

写真・今年2月1日の事故現場。会社の管理責任は問われないが…

新ライフスタイル 「オリンピックめざす小林由貴選手」  7月22日号
 「なでしこジャパン」がPK戦を制し、女子ワールドカップで世界の頂点に立った18日、小林由貴(23)は歓喜の日本を後にし、ヨーロッパアルプスのイタリア、フランスの標高2千bの雪を求めて旅立った。帰国は来月10日。全日本クロスカントリースキー、ナショナルチームの夏合宿だ。
(敬称略)


 30度を超える炎天下。津南町役場からニュー・グリーンピア津南への舗装道路。ひとり黙々と練習する小林の姿があった。全日本ナショナルチームメンバー。3年後のロシア・ソチ五輪をめざす。昨春から岐阜日野自動車スキークラブに所属。小林は津南中ー十日町高ー早稲田大とクロカンに取り組み、大学3年でオリンピック候補選手が入るナショナルチームに入る。

 学生選手から、社会人選手。岐阜日野の先輩には、同じナショナルチームの先輩で、国内クロカンの第一人者、石田正子がいる。2012年、岐阜国体が開かれる。早大在学中から、岐阜日野から誘いを受け、契約社員に。「どこで練習しても良いと理解をしめしていただき、私は津南をベースに練習します」。以来、生まれた津南を拠点に、トレーニングに励む。


 劇的な優勝シーンが忘れられない。津南中3年の駅伝新潟県大会。アンカー勝負となり、小林は先行する分水中にラスト100bで追いつき、そのまま抜き去り、優勝テープを切る。全国中学駅伝のキップをもぎ取った。

 十日町高3年の冬。秋田・鹿角市でのインター八イ、全国高校スキー大会。女子リレー。先行する飯山南を、これもラスト100bで捕らえ、そのまま抜き去り、歓喜の初優勝ゴール。

 中学時代は貧血に苦しめられた。「環境の変化に弱い自分がありました」。駅伝、クロカン指導の恩師、山内京子コーチ(現・羽鳥)と共にチームが掲げた『静心』を思い出す。「今も京子先生とは連絡を取り合っています。静心の言葉の深みを、噛み締めています」。


 全日本ナショナルチームの女子指定メンバーは3人。A指定の石田正子、C指定の小林、柏原理子の3選手。国内クロスカントリースキー女子では、ナンバー2の位置。オリンピックは国内予選を経て決まるが、五輪出場はナショナルチームメンバーが第一条件。ソチ五輪出場が視野に、濃厚に入っている。

 小林が自信をつけた大会が昨年12月、フランスでのワールドカップ第3戦。得意の15`フリースタイルで28位。30位以内で与えられる国際スキー連盟FISポイントを初めて取得。「あの大会が、大きな契機になり、大きな自信になりました」。今年1月のアジア大会では、チームスプリント3位、10`個人フリー3位、リレー2位と活躍。3月のノルウェーでの世界選手権では、30`個人フリーで27位と日本人最高位を獲得している。


 通称「ユキんこクラブ」、「小林由貴選手を応援する会」が昨年11月、津南町に誕生した。ナショナルチームメンバーには、連盟から支援金が出るが、遠征費、練習費用、用具費用など、とても足りない。同クラブは「小林をオリンピックに出し、津南の子たちの目標に、夢実現につなげたい」と熱い。

 事務局の志賀直哉は、クロカン選手の経験から、競技継続の大変さを身を持って知る。「由貴のひたむきさ、練習ぶり、我々も勇気が出てくる。今の状態ならオリンピック選手はまちがいない」。同クラブは現在会員80人余。目標は百人以上。支援を呼びかける。


 今月15日。津南特有の起伏に富む河岸段丘のニュー・グリーンピア津南道路。照り返しの舗装道路を黙々とローラースキーで走る。全日本ナショナルチームの小堺啓史コーチが、ビデオ収録やフォームチェックなどアドバイスした。「津南をベースに練習するので、ひとりが多いですが、自分に妥協せずに、目標をめざしたい」。いつもの由貴スマイルで話す。9月からはオーストリア合宿。

 「なでしこの澤さんは、14歳から世界に挑戦し、32歳で世界の頂点に。あきらめない、妥協しない姿は、大きな励みになります」。

写真・黙々と練習に励む小林由貴(15日、NGP津南で)

 

同時代的な視点で記録、全国発信を、「月間栄村」創刊  7月22日号
 震災から4ヵ月の今月12日、県境地震の被災地・栄村から、復興支援情報誌が発刊された。「月刊栄村」。毎月地震発生日の12日に発行する月刊誌だ。創刊号は、村内の緑陰道の背景に『栄村はがんばります。』のテーマがドーンと読者に迫る。ライターはムラ出身の女性や元朝日新聞記者、イラストレーターなど多彩な顔ぶれ。創刊の辞では、震災の教訓は言わなければ分かってもらえない』と、被災地からの声上げの必要を打ち上げている。震災の地を舞台に、被災者自身が事業化する情報誌を立ち上げるのは全国的にもめずらしく、災害後の現地レポートの一つの活動として全国注視の月刊誌となりそうだ。


 発行はNPO栄村ネットワーク(樋口利行理事長)だが、制作は編集員会を組み、事務局は東京・新宿区に置く。編集委員には同NPO理事や元新聞記者、フリーライターなど10人余り。編集長は中川文人さんは、電子書籍の専門店「わけあり堂」社長。中川編集長は「多くの人たちが(大震災後)時代は変わったというが、その変わった後の時代は何なのか、その記録を残したい。復興支援が第一だが、いま栄村が直面しているテーマは、実は栄村だけの状況ではない。どこに暮らしていても無関係な事ではない。同時代的な視点で記録し続けたい」と話す。


 創刊号には、阿部長野知事、島田栄村長が寄稿。同NPO理事の松尾眞氏が「疎開と復興支援のススメ」で、地震活動期に入った国内状況から、「疎開が、究極の地震対策」と述べ、栄村のむら暮らしの真髄をレポート。元朝日新聞記者でジャーナリストの藤原勇彦氏は、栄村人口2200人を支援する「村外村民3000人」への第一歩をアピール。村内平滝出身のフリーライターの油科真弓氏は、連載「おとこしょ おんなしょインタビュー」で小滝地区の夫婦を取り上げる。さらに「結婚できない女」などの著書で知られるライター、小山祐子氏は「よそ者が見た被災地の二つの顔」をレポート。村内青倉出身のイラストレーター「ゆきつぼ」氏の「栄村のお宝紹介」、デザイナーの木村百合子氏は「栄に拠点をつくろう」と呼びかける。同誌にはキャラクター(デザイン・斉田直世氏)も登場する。


 すでに8月12日発行の準備に入り、中川編集長によると、第2号では「避難所暮らしの実態」の検証、震災農地の復旧復興を専門の立場から信州大・木村和弘教授が提言、編集委員の松尾眞氏の東北被災地レポート「陸奥(みちのく)一人旅」などを予定している。

 同誌は栄村の全戸に無料配布。栄村振興公社施設やや物産館などで販売のほか、電子書籍「わけあり堂」で購入できる。1冊315円。連絡先рO80・1987・3549、Eメール aokura@sakaemura.net 
電子版は「わけあり堂」で検索し、申し込める。

  

自伝発刊、前町長・小林氏、出版記念に集う  7月22日号
 「20年、あっという間だった」―。津南町政史上最長の5期20年を勤めた小林三喜男前町長(77)の自伝「故郷が人を育み 人が故郷を作る〜小林三喜男町長とその仕事」がこのほど発刊された。A5版213n。幼少時代の思い出から、国営苗場山麓事業の取り組み、町長選出馬、自律への道など綴っている。小林氏は「本のタイトルが願い。子どもたちが故郷に誇りと自信を持ち、津南の素晴らしさを感じてくれれば」と想いを話した。
 

 記念誌は小林氏後援会が中心となり発行。出版と叙勲の祝いは16日、ニュー・グリーンピア津南で開いた。町内各地区の後援会世話人、氏を支えた瀧澤秀雄元副町長や町役場元職員ら百人が参集。上村町長、村松県会議長、尾身県議が来賓出席。同誌刊行会の山本三雄代表は「苗場山麓事業、平成の大合併など、自分自身はもちろん家族も犠牲にする覚悟で行政に当たったからこそ津南町の歴史に残る」と称えた。
 
 
 33歳で町議就任、36歳で師と仰ぐ当時の村山正司町長に請われ町職員となり苗場山麓事業に没頭。そして町長選出馬と惜敗、2度目の選挙を僅差で勝利したのち、長きに渡り町政を担った。「波乱万丈の人生だったな。津南の自然と四季は住民に感銘と忍耐を教えてくれる。少子高齢化が進む今、改めてお互い手を携え生きる大切さを考えて欲しい」と話す。会では孫から小林氏と妻の雅子さん(75)に花束が贈られた。
 
 なお同誌は千部発行、定価2千円(税込)。若干残部があり、町森林組合と大地で販売。問合せは同会事務局の宮沢さんрO80‐2343‐1234。

職業体験、津南中等校から2人が本社へ、桑原教育長にインタビュー  7月22日号
 インターンシップ(体験学習)を教育活動に取り入れる小中学校が増えている中、県立津南中等教育学校(本田雄二校長)の3年79人は20、21日、魚沼エリアの県立病院、福祉施設、民間会社など41事業所で職場体験した。本社にも大口菜々子さん(津南小卒)、石橋知果さん(同)が23日開幕の「ひまわり広場」やなじょもんを取材し、新聞作りの一端を体験。実際の取材体験では今春、津南町教育長に就いた桑原正教育長にインタビューした。以下は2人が取材、原稿書きでまとめた記事を掲載する。


 今年3月まで津南小校長を務め、4月から津南町教育長に就任した桑原正教育長(60)に、今の子どもたちの教育と教育長という職務について聞いた。

 =小学校の校長と今の教育長とで、大きく違う点などを聞かせて下さい。
 「校長の時は、学校教委を中心に考えていました。一方、教委長は生涯教育、スポーツ、文化、公民館活動など、すべての責任者です。仕事の中身がとても広範囲です」。

 =津南の子たちの良い面、あるいは課題となる面などについてどう考えますか。
 「素直でまっすぐな子が多いので、先生方は勉強を教えやすいと思います。課題を言うなら、苦しくてもへこたれない力、負けない強さをもう少し鍛えてほしいです」

=ところで、桑原教育長はどうして先生になろうと思われたのですか。
 「中津中学の時に出会った見波四郎校長に影響を受けました。専門は音楽の先生で、津南音頭を作った方です。とても人間味がある先生でした。自分もと思い高校2年の時に決めました。津南出身の先生が少ないので、先生をめざして下さい」

=今の津南の子たちの教育についてどう考えますか。
 「日本一の子になってほしいと願っています。津南町から来た子は素晴らしいと言われるような子に育つように、教育委員会は支援していきます。頭も心も身体も鍛えて、夢に向かって頑張ってほしいです」

=どうしたら勉強が楽しくなりますか。
 「好きな教科をとことんやると応用力がつくので、他の教科のやり方が分かってきます。難しいことも、続けていると面白味が分かってくる、なんてこともあります。学校教育は人が得る全知識の5%程度といわれ、あとの95%は社会人になってからと言われます。目の前の知識を一生懸命たくわえることも大切ですが、学び方を学ぶことが、これからの人生でより大切です」。

◇◇◇

 職場体験を終えて
桑原教育長から知りたかったことを、分かりやすく教えていただき良かったです。インタビューや取材、記事作りを通して、新聞が作られる過程を知ることができて、とても貴重な職業体験になりました。   (石橋知果)
        ○
取材やインタビューなど、新聞作りの知識を得ることができて良かったです。実際にインタビューをしてみて、会話を続けることが大切なことだと知ることができました。新聞をつくる事は本当に大変なことだと改めて実感しました。今日の一日はとても充実した一日だったと思います。   (大口菜々子)

写真・桑原教育長にインタビューする大口さん(左)と石橋さん

桑原悠のふりーたいむ  福生市役所の根津正徳さん  7月22日号
 先日、東京都福生市役所に勤務する根津正徳さん(29・陣場下)に会った。過去の連載は皆、私と同い年位の人だった。今回は、もっと年上のお兄さんの「仕事欲」のようなものを感じた。実際、「やりがいを感じている」と話していた。
 

 具体的にどんな仕事かというと、会計課で市の財政収支をチェックしている。沖縄料理店で海ぶどうを食っているこの「屋根長の坊」が、福生市のお金の流れを把握している人らしい。市が、どの活動にどれくらいお金を使うかは、政治的スタンスの表明でもある。正徳さんは「市のレジ閉め」をしながら、それを観察しているってとこ。
 

 福生市の大きな特徴は、面積の3分の1が米軍基地であることだ。市の観光ガイドマップを頂いて見てみたら、国道16号線を境に、横田基地で占められていて異様だった。また、8月4〜7日にかけて開催される「福生七夕まつり」は60年の歴史がある一大イベントだそうだ。正徳さんは「ぜひ津南の人にもお越し頂きたい」とアピールも欠かさなかった。行政マン。(アピールしましたぞ!)
 

 実家の屋根長さんへの思いも語っていた。住宅の構造はやはり気になるらしい。エネルギー・環境政策において、津南に太陽光パネルは向いているか聞いてみた。懸念事項は雪である。正徳さんは、配管を利用した融雪システムや氷を溶かす金属など、さすが詳しかった。ただコスト面で考えると、「…」であることが分かった。色々なことを知っている人だった。あまねく質問に答えてくれたし、「豚のがつ」は胃袋だと当ててみせた。これが大人のおとこ?
 

さて、今回でふりーたーむは最終回です。お読み頂きありがとうございました。

十日町駅を高架、関口市長が10年構想提唱、次期続投か  7月15日号
 市長1期目の任期折り返しの5月を過ぎ、後半2年の市政運営に取り組む十日町市の関口芳史市長(52)。10日、クロス10で後援会(佐野良吉会長)総会市政報告会を開き、8百人余が参加。同席で関口市長は、「これは10年計画となるだろう」と、市街地再開発の一環として町中央部にある「十日町駅の高架」という壮大な構想を打ち出した。出席者からは「市政続投の表明か」と関心と期待を集めている。


 同会は後援会の夏の恒例総会。ただ今回、来賓の顔ぶれが揃った。政権政党の民主から農水副大臣の筒井信隆、参院の風間直樹の両氏、野党の自民から参院の水落敏栄、佐藤信秋、中原八一の3氏、さらに地元県議で議長の村松二郎、県連政調会長の尾身孝昭の両氏が出席。関口市長は、市民との市街地再開発懇談の中で出た意見と前置きしながら、さらに自身でグレードアップした構想を打ち上げた。


 現在のJR飯山線十日町駅、ほくほく線十日町駅を合体し、同駅を新幹線駅のように一段上げる高架プラン。「高架でれば、駅の下に市街地と下島を結ぶ道ができる。高田町の踏切もクロス10わきの踏切も不要になる」という壮大な計画だ。
すでに関口市長の頭には具体的なイメージがあるようだ。「駅を降りて、緑道を通ってキナーレ、クロス10にも行けるようになる。この街の中に大きな人の動き、流れを創り出すことができる」。キナーレは大地の芸術祭の拠点に、クロス10も食と特産の交流拠点に今年リニューアルする。駅を中心に新たな人の流れを創り、十日町の新たな顔を作り出す意向だ。


 ただ、課題も多い。「10年くらいの大きなスパンの計画となり、市だけでは出来ない。これはJRにも北越急行にもメリットある計画になる可能性がある。2014年問題、特急はくたか廃止後、どう経営するのか、私も取締役として経営に関与しているが、もし新しい駅をJRと共同利用できるような夢のプランが描ければ、北越急行に必ずプラスになる」。さらに「JRにとっても、あの大きな敷地管理、雪の管理が大変のなか、駅の合体で経営の効率化がはかられる」とJR、北越急行の連携での相互メリットを強調する。


 実は、すでに動き始めている。「先日、庁議を開き決めた。この政策をしっかり前に進めるため、JRと北越急行と一緒に勉強会を始めている。今は夢の話だが、これが出来れば十日町市は10年後、素晴らしい十日町市になる。子や孫に自信を持って引き渡せたら、市長として、市民としてこれ以上の幸せはないと考えている」と新構想を熱っぽく語り、参加者の大きな拍手を受けた。

写真・十日町駅(正面)。高架で駅西とを結ぶ道路が駅の下にできる

新ライフスタイル「鈴木祐介」、二束のわらじ、農業11年目、高校講師  7月15日号
 「うちにはまだ屋号がないんです。『きいろ』にしようかなと話しているんですよ」。同い年の康子が、玄関前で笑う。築後100年余の古民家を我が家にして、三度の冬を越している。国内外で古民家再生などの家作りに取り組む十日町市に工房を持つカール・ベンクスが設計した「黄色の家」。東京・練馬のマンションで育った鈴木祐介(39)にとって、住んでみたい家だった。
(敬称略)


 全国名水100選の津南町の竜ヶ窪からの清冽な湧水が、家の周りを流れる。「この間、ホタルが3匹飛んでいたよ」。津南移住した翌々年に生まれた長女、一葉(ひとは)は、もう小学4年生。すっかり地元に馴染んでいる。保育園年中組の長男、翠(みどり)は、外遊びが大好き。太い柱に吊るしたハンモックやブランコ。積み木細工のような階段。屋根裏に通じるまっすぐな年代物の階段を上がると、とんがり屋根そのままの天井。窓からは緑の田んぼ、遠くの山々が見える。3階構造の各階とも仕切りがないワンフロアー。

 1階の窓を開けると、南北に風の通り道ができる。「100年、この地で暮らしが続いた家なんですよね」。


 子どもの頃から動物好きだった。「獣医か飼育系かなぁーでしたが…」。その関心は、青森まで飛んだ。「ただ犬や猫、牛や馬の生態がどうのこうのでは、面白くないです。その生き物のあるべき姿、なぜ、なぜという疑問への挑戦でしょうか」。青森の大学の畜産学部へ。「畜産は牧草作りから乳製品まで守備範囲が広いですから」。ついには研究者をめざし、大学院に進む。
二つの道を考えた。「学び、研修した知識を人に教える立場になるか、直接生き物に関わるか、です。でも、僕の場合、いつもそう考えるのですが、やってみないと分からないと」。

 いま、その二つの道を同時にしている。農地を相手に作物を作り出荷する農業者。毎週3日、約1時間かけて魚沼市の県立小出高校に通い、週8時間の生物の非常勤講師として教壇に立つ。
2000年。津南町が募集する新規就農者研修制度に参加。長野市生まれ、大学で民俗学専攻の康子と、津南町が用意したファームハイツに入る。研修後、独立。葉タバコ栽培、アスパラ栽培を主体に取り組み、昨年から葉タバコに代わり、生食トマト栽培に取り組む。

 「二束のわらじです。でも、農業だけなら、それで完結してしまいます。両方やることで、面白さが倍加しています」。
先日、授業中に高校生に話した。「鉢植えのトマトが転び、茎が横になった。そのまま放っておくと、どうなるか。茎は曲がって天をめざす。なぜ横に伸びないのか」。授業に出てくる植物ホルモンの関係を、具体例を引用して話す。農業の実践家が話すリアルな話しに、高校生は釘付けだ。


 大学院卒後、しばらく務めたコンピューターソフト会社。三沢基地の近くだったため、外国人方の仕事も。「ソフト作りからケーブル張り、セットアップなどなんでもやりましたね。向こうの片言の日本語、こっちの片言の英語、なかなか面白いコミュニケーションだった」。その会社の経験で、いま「ノラスズキ」のパソコン相談も受けている。簡易な農業会計ソフト、パソコン指導など行っている。黄色の家の屋根裏が、仕事部屋だ。

 鍬(くわ)も握ったことがない人間が、真っ黒に日焼けして農に取り組み、住みたかった古民家暮らしを満喫している。「やってみないと分からない、これからも、これですね」。

写真・カール・ベンクス設計の「黄色の家」と鈴木一家(津南町立石で)

56年前の本紙創刊第1号見つかる、創刊に尽力の元新潟日報記者・上村善司氏保全  7月5日号
 1955年(昭和30年)創刊の本紙「津南新聞」の創刊第1号が先月末、十日町市で見つかった。創刊号を保管していた人物は、実は本紙の創刊に深く関わったことも判明した。創刊から2年分の本紙を保管し、このほど十日町情報館に寄贈された。


 旧水沢村新宮(現十日町市新宮)の上村善司氏(明治34年―昭和43年)は、新潟日報・十日町支局長を昭和10年から戦後の24年頃まで務めた。その退職期と重なるように同24年「魚沼産業新聞」が創刊され、同29年「魚沼新聞」に改称、同30年3月9日付で休刊している。津南新聞は同30年3月12日、創刊第1号を発行。この一連の新聞発行には、新潟日報退職した上村善司氏が指導的に関わり、ペンネーム「宮下克児」で署名記事を寄せている。


 善司氏の三男で東京都立高校教諭だった上村宇一氏(84)が、その経過を話してくれた。日報記者を退職後、「津南地域にも新聞があってもいい」と週刊発行の新聞を起こす活動を始めた。宇一さんによると、日報退職後、「十日町には十日町新聞があったので、津南にも新聞をと動き、大原さん(耕之祐・本紙先代)と出会ったのではないか。当時、雪道の中、歩いて津南に通っていた。素人に教えるのは大変だと話していたのを覚えています」と話している。

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 今回の創刊号発見は、宇一さんが6月10日号の十日町市報掲載の大相撲「双葉山」の記事を見たことから始まる。「そういえば家に双葉山の署名入りの日章旗があった」と十日町情報館に連絡。父・善司氏の出征が濃厚になった昭和15年8月、東京大相撲「十日町興行」が行われ、善司氏が「弾除け」祈願の力士寄せ書きを頼んだ。   


 その日章旗には、当時の横綱・双葉山、羽黒山など17人の力士が寄せ書き。旗には「陸軍兵長 上村善司」と署名。この時は出征せず、昭和20年7月に召集されたがすぐに終戦、帰郷した。
この日章旗は情報館に寄贈。その時、「実は津南新聞の創刊に父が関わり、創刊号を保存してある」と共に情報館に寄贈。同館から連絡を受けた本社が、創刊号を確認した。


 同情報館の高橋由美子学芸員は「市報の双葉山から日章旗、そして津南新聞の創刊号と、まさかの展開です。善司氏は地元の新宮軍人手帳という和紙に手書きの記録集を30部ほど残し、戸々に配っています。日報記者経験から記録を大事にしたようです」と話す。さらに「昭和30年前後、この地には他にも新聞があったようで、そうした地域の歴史は余り知られていません。歴史の掘り起こしをしたいですね」と話している。


 発見の創刊号から2年分の津南新聞。その題字は、保存表紙の書と同じため、善司氏に揮毫と見られる。31年には部分的に2色を使い、当時としては異色の新聞だった。本紙の恩田昌美社長は「社でも創刊号を保存しているが、本社以外で創刊号が見つかったのは初めて。上村さん保存の創刊号から2年分は、極めて良好な状態。いまの津南新聞があるのは、善司氏の着想と指導があったからこそ、こうして継続できている。改めて感謝したい。創刊の思いを改めてかみしめ、さらに歴史を刻みたい」と話し、感謝している。

全国初、棚田災害復旧に新工法、松代「清水の棚田」 7月15日号
 全国棚田サミットの会場にもなり、里山の景観を代表する十日町市の松代「清水の棚田」は3月の県境地震後の4月19日、大規模に崩落し、貴重な観光資源の再生が課題になっていたが、今月12日、新潟大グループが主体の県農業農村整備事業環境情報協議会が修復の方法を市や地元や説明した。   


 復旧は、耕作継続と景観復旧をねらいに、同地の等高線を活用した「平行畦畔型の等高線区画」という工法で復旧する。これにより標高に応じた細長い棚田が10段以上、復旧できることになる。全国初の棚田復旧の工法となり、関心を集めそうだ。

 大規模な地滑りは一体の棚田3・2fのうち約1・6fが崩落。幅百b、長さ5百b、28枚の棚田が消失し、堆積土が部分的には40bの厚さ。同地の耕作者は3人。市では通常の災害復旧に加え、「景観の復旧と耕作継続」に重点を置き、国にも同景観保全を強く求め、今回の全国初の工法での復旧が実現した。


 計画では、消失した28枚の棚田を27枚に復旧。等高線に沿い造成し、幅10〜15b、長さは最長せ150bという細長い田となり、田の段差は約3・5b。下段部から等高線に沿い17段の棚田が再生されることになる。市の説明では事業費約2・7億円を見込み、田1枚約1千万円の事業費となる。来年の耕作には間に合わせたい計画だ。なお松之山「留守原の棚田」もほぼ災害前の状態に復旧できる見込みで、国に災害査定を受け、共に9月に着工の予定だ。

写真・地滑り前の清水の棚田(十日町市松代清水)

一線退職の元プロ、小学生に特別授業  7月15日号
 ○…「ベテランだからこそできることがある」。経済大国日本を作った元トップ経営者や技術者、商社マンらで作る「ディレクトフォース」(松村洋代表理事、以下DF)。関東を中心に活動、大学講師や企業の顧問などで活躍。そのうちの技術部会所属11人が9日、十日町市の奴奈川小、中条小を訪ね「理科実験教室」を開催。世界最大の最新鋭旅客機A‐380を象ったオリジナル紙飛行機作りなど行い、子どもたちに日本を支えた理科の魅力を伝承。
 

 ○…DFは5年余前から同市と交流。60代から70代のメンバーの元職は三菱グループ、ブリジストンや東芝、丸紅など実業界トップの役員。飛行機作り指導に当たった山之内憲夫さん(71)は日本最初の旅客機YS‐11の設計者でテストパイロット。「身近な所に不思議な現象は多くある。それに興味を持ち、理解するために大切なのは理科。おもしろさを伝えたい」となぜ飛行機が空を飛ぶのかなど熱心に解説。奴奈川小3年の西潟史有香(しゅうか)さんは「元々理科は好き。話を聞いてすごい仕組みで飛行機が動いていると知りました」と興味深そうだった。

農産物も調査、県は初の放射能被害の対応マニュアルを  7月8日号
 福島原発事故で放射性物質の拡散と食物汚染への被害拡散が心配されるが、新潟県はほぼ毎日、野菜など農産物市場でサンプリング調査を行い、品目ごとに県ホームページで公開している。その検査で基準値以上の放射性物質が検出された場合、現場の生産者、流通業者などの取るべき対応を既定した「県農産物における放射性物質検出時出荷自粛マニュアル」を先月21日付で県内農協、森林組合など出荷流通団体に通知したことが明らかになった。放射性物質の安全対策がいよいよ県内農産物にも及ぶ事態となっている。


 今回の対応マニュアルは、事故発生時に福島県などで行われた農産物出荷規制に準じるもので、毎日の市場サンプリングにより、基準値以上の放射性物資が検出された場合、県から農協など関係団体へ連絡が入り、さらに生産現場の農家に通知され、出荷自粛あるいは出荷停止の措置がとられる。検出後は1週間ごとに作物検査を行い、連続3週間、検出数値が基準値以下となった場合、出荷停止、出荷自粛の措置は解除される。今回の対応マニュアルの通知は、全県に一斉に通知している。

 同マニュアル通知を受けたJA津南町は、「町全体での対応が望ましい」と農協独自で組合員に文書通知する考えはない。同農協は先月6日から、出荷アスパラの検査を始め、これまでの検査で放射性物質の検出はなく、安全性が確保されている。JA津南町の内山優営農部長は、「放射能物質への対応は単独では難しく、県や町など信頼性ある公的機関による継続調査が必要だ。町と協議し津南の安全策を整えたい」と話す。一方、津南町森林組合では「調査方法は検討中だが、キノコ菌床オガクズは大部分が津南産。現状では問題ない」(滝澤寛治専務理事)。


 調査は県防災局放射線監視センターが行い、県ホームページで公開。県農林水産部は「マニュアルで生産者が放射性物質への共通認識が必要。緊急時に備えた意識づけとなる」と、国方針に合わせ今後も対応策を調整する方針だ。

新ライフスタイル 山田麗艶さん 「お寺の奥さん」、漢方医   7月8日号
 真冬なのに、なぜ素足にスカートなの?、皆がそう思っているのに…。親たちは「学校側が決めてほしい、なんですね。何かおかしいです」。皆と同じでないと困る、皆と合わせようという意識。典型的な日本の姿を感じた。

 娘たちが中学時代。こんな疑問を抱きながら、津南町の「お寺の奥さん」山田麗艶は、子育てに取り組んだ。「まず規則を作ることを考えるんですね。自分の判断でなぜできないのかな、と今も思います」。その娘たちは成人し、家を離れている。
PTA役員など子育てと共に教育現場との関わりが増え、感じることが多かった。「我が子の躾まで学校に任せています。一方で先生は余りにも忙しすぎます。その結果、子どもたちが興味を引くような授業が出来なくなり、学校が面白くない、という感じになってきます。学校では学問を教えてほしい、学ぶことの面白さを教えてほしいです。それが生きる力になるはずです」。
(敬称略)

 中国の医学部系の大学、広州中央学院大の同窓会50周年記念が5年前にあり、外国に出た学友と20数年ぶりに会った。「アメリカへ行った友だちと日本に来た私たちは、中国にいる友だちの会話について行けませんでした。新しい言葉がたくさん生まれていました」。中国・広州生まれ。1984年に津南町芦ヶ崎の龍昌寺住職、隆一さんと結婚。「お寺の奥さん」に。当時の中国、日本もそうだったが、携帯電話もパソコンも一般的ではなかった。「インターネットは、ネットですから網がつくんです。中国では次々と新しい言葉が生まれています」。23歳で津南へ。「もう津南暮らしのほうが長くなりました」。

 昨年6月、お寺の檀家20人余と生まれ故郷に行ってきた。中国の代表的な果物「ライチ」の特産地。「日本で見るライチは茶褐色ですが、本当は赤です。さくらんぼのように木になっています」。冷凍で日本に直送されるため、茶褐色になるという。


 13年前。津南町から『結婚相談員』に任命された。10人の相談員、女性は5人。「昨年で辞めようと思ったのですが…」。男女の出会いの橋渡し役だが、難しい現実に直面している。「言葉にすれば、魅力ある町には住みたくなりますし、魅力ある人は、人を引きつけます。ですが、年々難しくなっているようです」。
全国で同様な取り組みが行われ、年に一度、相談員は東京・日本青年館での研修に参加する。「どこの地域も同じようです。この傾向は全国的なようですね」。ちょっと前の女性側の言葉が、今は男性の言い分になっている。「酒を飲むから…」、「タバコを吸うから…」など。「自分を変えて、合わせていこうという気が、感じられませんね。1人でいる時間が長いと、そうなってしまう傾向があります」。

 4年前、北京テレビの取材を受けた。お寺の仕事、結婚で外国からの津南に来た女性を支援する「ことばのキャッチボール」活動など収録。中国で放送後、「すぐに中国の女性から手紙が来ました。津南の男性と結婚したいという内容でした。びっくりしましたね」。国際結婚などで身寄りのない地に来た女性たちを支えている。


 中国ではドクターの麗艶。専門は漢方。「でも日本は、中国の医師免許を認めていません」。地域からの相談は受けている。家族の主治医として3人の子を育てた。

 寺は、日本の古典的な象徴である。「自然体でやってきましたし、今もそうしています。自分流かもしれませんが、人と人は自然体がいいですね」。お寺の玄関わきに、囲炉裏がある。「このテーブルは地元の方に作っていただきました」。囲炉裏の上には火棚があり、その上には円形の大きな板盤がある。「これが何か、いまも分かりません。うちの寺だけにあるのでしょうか」。なぜ、の感性は、23歳で寺の門をくぐった、あの時のままだ。

マウンテンパーク津南、経営継続、検討委は「廃止」だが  7月8日号
 津南町の観光施設を総点検する「観光施設検討委員会」(委員7人)は、開業47年が過ぎ、6年前から民間委託のマウンテンパーク津南について「今年度末の契約打切りを出したが、経営継続の意思が固い。平成27年3月の契約満了で廃止」と答申した。今後、上村町長がどう判断するか、関心が集まる。一方、経営する株式会社クロスマイルの梅邑太郎社長は、「ここ数年、業績は伸びている。高校、大学の夏冬合宿は20校を上回っている。ネット予約が8割以上で、いま営業をやめる理由はない」と、関東エリアの旅行代理店との連携、契約も取り付け、4年後の契約満了までの積極経営の姿勢を見せている。


 同検討委員会は昨年12月設置。町観光協会に委員人選を任せたが、結果的ながら委員7人のうち5人が町議、他は観光協会長と副会長。10回の委員会では各観光施設との懇談、マウンテンパークの地元2地区との懇談などを開き、先月17日、上村町長に答申した。
その答申内容について6日、町議会全員協議会で説明。注目はマウンテンパーク津南。昭和40年、地元共同出資で開設した「津南スキー場」から、新潟県観光公社、さらに三菱重工などの3セク経営、町直営、今の民間委託へと時代に奔流されるように経営母体が変わった同津南。今年2月の地元上野、押付・小島・巻下との懇談では「駅からのリフトが止まり、関係が薄くなり、廃止もやむをえない」、「存続の思いはあるが、町の支出の大きさを見ると継続は難しい」と、廃止への理解を示した。


 これを受け同検討委員会は「23年度末で廃止」の方針を出し、クロスマイルと懇談。梅邑社長は、一昨年の黒字決算、ここ数年の利用増を示し、「ここで廃止の理由は見つからない。契約期間は経営する」と継続方針を示した。このため答申では、これまでの委託料は維持し、町支出の修繕費半減を示し、答申した。

 具体的には経営委託費1750万円、クロスカントリースキーコース整備委託4百万円は維持し、地権者約百人の借地料470万円は、「リフト撤去など使っていない用地は返還する」(町地域振興課)と、借地料減額をはかる。一方、ここ数年約千4百万円の修繕費(圧雪車整備、リフト保守点検、ロッジ修繕など)を半減、7百万円にする方針を答申した。


 上村町長は「ずるずると補助金を出し続けるつもりはない。今後の経営の具体論を出してほしいと、クロスマイルには話している。それで判断したい」と、10月頃の具体的な経営計画の提出を求めている。なお町は今冬前に津南駅わきの第10、その上の第1、上野の池左側の第7のリフト3本を撤去する計画だ。今回の県境地震の被害は約2千万円で、町は約3百万円で施設を応急修繕している。

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 観光施設検討委員会はマウンテンパーク津南のほか5施設も検討している。萌木の里は「冬期間の休業の検討を」、劉神の里は「町内顧客獲得のリーズナブルな料金設定に」、かたくりの里は「NPO越後妻有里山協働機構に管理委託しているので提言しない」、リバーサイド津南は「営業時間の見直し、休日数の増加、水道光熱費削減を」、津南観光物産館は「修繕費など管理費を受託者負担に」などを提言している。

桑原悠のふりーたいむ「宮澤光太さん」  7月8日号
 取材の面白さを感じるのは、大体いつもペンとメモをしまってから。「この辺で。ありがとう」と言って筆記用具をカバンに入れた途端、相手の本音が出たり意外な話が聞けたりする。聞き手としてはそこからが面白い。だが問題は、それを聞いている間、暗記しなければならない。「じゃあね」と別れた直後、慌ててメモを取り出し、書き殴る。今回もそうだった。
 

 宮澤光太(24・卯ノ木)の職業はシステムエンジニア(SE)。今年東京理科大学大学院を修了し、某メーカー系システムインテグレータに入社した。銀行のATM、ネットバンキング、新幹線の予約、信号など今はもうあらゆるところに使われている情報システムを開発する会社。よく分からない読者の方は、ITの仕事とご理解いただければ十分だと思う。
 

 私は知的財産権の勉強をして以来、いろいろな分野の最先端技術に興味津々なのだが、あまり話を引き出せなかった。当たり前だ。情報システムに関する情報も、きっちり管理されていることが分かった。同時に、彼が会社の人間になったことも思い知った。
 
 ただ、SEに対するイメージが変わったのは今回の収穫であり、彼自身の気づきでもある。「SEは常にパソコンとにらめっこじゃなくて、プロジェクトの企画や営業もするみたいだ」だと。もはやこれからのビジネスは、供給サイドの提案型で勝負ということか?
 

 15歳で津南の実家を出て、彼は寂しい思いをしたはずだが(してないと言い張っている)、結果的に良かったと言った。受験勉強は辛かった一方、得るものはそれ以上に大きいということだ。何より光太が、仕事帰りに恵比寿に寄っちゃうようなサラリーマンになったなんて、おばさん!この写真を見てください。
  

命の教育、ヤギが卒業、 芦ヶ崎小学校  7月8日号
 ◎…さよならリボン。昨年から「命の授業」で生後3ヶ月余の子ヤギ飼育を始めた津南町の芦ヶ崎小(内山恵子校長、54人)。「リボン」と名づけ、1、2年15人で1年間世話した。そのリボンが成長したため、同校卒業のお別れ会を30日開いた。子どもたちは名残惜しそうに校庭を一緒に走り、「いままでありがとう」と感謝。別れの時には「リボン」の大合唱となり、涙でお別れした。
 

 ◎…毎日、1年間世話したリボン。エサやり、糞で健康チェックなど親身になり育てた。体長1・5b余、体重50`c余と大きく成長、低学年では世話が大変となり、新たな子ヤギと交代することに。お別れでは車の荷台に載ったリボンを見てみんな大泣き。3年の冨沢由衣さんは「リボンがいなくなるのは悲しい。一生忘れません」。鈴木一葉さんは「育てるのは大変だったけど、一緒に校庭を走ったりした楽しかった」と抱き合って涙した。リボンは十日町市の民家に引き取られた。
 

 ◎…命の授業に協力する、元妙法牧場長で全国山羊ネットワーク・今井明夫代表(67、三条市)。「本当に立派に育ててくれた。愛情がなければできない。ヤギの飼育を通し、食べるものを探す大変さ、人を思いやる気持ちや命の大切さを知る契機になったと思う」と話す。同小は今年も命の授業に取り組む。この日、生後2・5ヶ月の子ヤギが新たな仲間に加わり、みんなで雪国をイメージした『ユキ』と名付けた。1、2年20人が育て、来春に出産も経験する予定だ。
 

大臣辞任の松本氏、被災地の津南、栄村へ 7月8日号
 ◎…問題発言で5日、震災復興大臣を辞任した松本龍氏が6日、突如、県境地震の被災地、津南町と栄村に訪問。「プライベート」を強調する松本氏。越後湯沢駅からタクシーで津南町へ。大規模な土砂崩れで通行規制が続く国道353号辰ノ口現場や小中学校を視察。地元では「大臣の時ならば復興が進む契機になったのに。今頃なぜ」の声も。松本氏は「大臣として東日本にかかりきりだったが、以前から来たかった。辞任で時間ができた。プライベートだ」と話した。


 ◎…一行は内閣府職員らと3人。ノーネクタイに黒のジャケット姿。上村町長と懇談中にはジャケットを脱ぐなどリラックス。上郷中校舎視察後、栄村へ。島田村長と村公用車に同乗、青倉や横倉、仮設住宅など視察。両町村長との懇談で、「東北のことを知っているのは永田町で俺しかいない」、「今度の平野達雄大臣もずっと私の子分だったから、彼も同じ論理なのは間違いない」など、『懲りない発言』も。津南と栄村視察後、タクシーで長野に向かい新幹線で東京に戻った。突然訪問は5日午後、内閣府から『一議員として被災地を視察したい』と一報、急きょ来訪が決まった。

インド舞踊、被災地を元気に  7月8日号
 ○…インド古典舞踊で被災地にエール。世界7大舞踊のひとつ「オリッシーダンス」公演を6日、津南町文化センターホールで開いた。民族衣装の女性たちが約2千年の伝統の舞。350人余の観衆から大きな拍手が。十日町市の滝沢由紀さん(60)は「インドの踊りは初めて。動きが独特でおもしろい」と感想。
 

 ○…インド大使館主催で世界で活躍の第一人者、ランジャナ・ゴハール女史らが来日。NPO日印交流を盛り上げる会(長谷川時夫理事長)の仲介で津南公演が実現。インド大使館のアラック・プラサード大使は「震災で日本の助け合い精神の素晴らしさを感じた。何があっても力を合わせれば立ち上がれる。インドも復興の応援をする」と被災地住民を激励した。

十日町病院は「危険建て替え」、村松発言の波紋、関口市長「県は本気だ」 7月1日号
 県立十日町病院の中核病院化(2次医療)に伴う改築問題は、地元選出の県議の発言が混乱を招き、地元十日町市が取り組む「危険な建物であり早期改築を」とする運動にも影響しかねない状況だ。
発端は今春の県議選後の村松二郎氏(現県会議長)の発言。『公設民営の推進役にはなれない』。この時点で病院がある地元十日町市は、県から投げかけられていた「新築の場所問題」に決着をつけ、「新十日町病院は現在地に建設」を決め、県の泉田知事、県病院局に伝えている。その後の村松発言だ。


 先月26日、地元経済界代表による「村松議長就任祝賀会」が開かれ、同席で村松氏は再び病院問題に触れた。「一番頑張っている十日町病院が県立を貫けないのか」と現在の同病院の医療体制の維持を求め、「早期改築なら現医療スタッフが中心になってもらえる県立やるべきだ」と、泉田知事方針の『公設民営』への反発姿勢を再び強調した。

 この日の議長就任祝賀会は、十日町市の経済界が中心で行い、同県議後援会とは一線を置き開いた。このため津南町への出席要請はなく、旧町村後援会関係者の姿も少なかった。
村松氏の発言を間近で聞いた十日町市の関口芳史市長。本紙の取材に対し、困惑気味に語った。祝賀会では「中山間地で経営上、民間が踏み出しにくい病院は県がやるべきと言う私が言いたいことをズバリと言ってくれた」と話した関口市長。当初から、「経営母体は県が決めること。十日町市は懸案の場所を決めた。今度は県が経営母体を決める番だ」との姿勢を見せている。


 取材に対し、関口市長は「私はこれまで、県立県営でないとだめとは言っていなし、これからも言わない」と、運営母体問題は県の責任で決めることと、一貫した姿勢を見せる。さらに強調するのは「耐震度0・19」という現実。「この耐震調査の結果は1年以上前に出ている。危険な建物であることは県も認めている。(最優先の)大前提は早期改築。この地域は地震と付き合うことが必要。壊れたらどうする、危険性を出して世論喚起をはかり、早期改築を実現したい」と、現在の病院建物の危険性を前面に出す地元運動で、県に迫る方針だ。


 さらに県が地域医療再生計画に十日町病院新築を明記し、国に提出したことに対し、村松氏は「市町に説明せず、県が独自に計画を立てたもの」と、県の姿勢を批判。ただ、この医療再生計画は、地元十日町市は県との協議で出ていたもので、県が国の地域寮再生基金を活用して、25年後までに新十日町病院建設に着手する方針は歓迎している。

 関口市長は、県が国に提出した再生計画には、明らかにされていないが新十日町病院建設の事業費は百億円規模で記載されているようで、「県は本気で新築を進める気持ちのようだ。仮に補助がだめだったら、起債で行きますよという考えが県はあるのではないか。それだけの本気度を感じる」と、国提出の県の地域医療再生計画への期待感を話している。


 一方で運営母体の一つとして浮上する「厚生連」について、「なかなか厳しいパートナーだが、人間関係をしかり作っていくことが大切」としている。新年度に入り、厚生連内部で役員交代があり、従前との温度差も伝わっている。

 新十日町病院の新築は、地域の最重要課題。危険度が高まる現病院建物の早期改築の実現が求められる。泉田知事は「私に任せて下さい」と、十日町市、津南町住民の前で公約している。

写真・村松議長就任祝賀会で(右は関口市長、中央が村松議長)

新ライフスタイル  骨董屋二代目 「捨てないで」 二度と作れない歴史財産 7月1日号
 「飯山線開通 汽車展覧會即賣會」。70a余りの黄ばんだ縦長の引札(ひきふだ)。昭和2年の森宮野原駅から田澤駅までの開通記念に各駅で開いた「汽車市」の即売会お知らせポスター。「この日は駅で賑やかに売出しが行われ、賑わったのでしょう」。所狭しと歴史を感じさせる品々が並ぶ店内で、津南町の高橋静男(64)が見せてくれた。「これは足滝でみつけたもの。当時の新聞と一緒に丸められていました」。骨董屋の2代目、7年前までは高校の物理の先生だった。
(敬称略)
 
 美宝堂。先代の父が始めた店を継ぐ。「今ある8割余りは、7年前に私が受けてから集めたもの。その8割は地元の津南地域のものです」。これは?と問うと一つひとつ説明してくれる。「どこの誰、どんな由来かなどすべて分かります」。

 銅製の茶釜の上に、筒状の器が乗る。その下から排水口のように2つの管が出ている。「これを初めて見た時、なんだこれは、でした。家のおばあちゃんに聞いても『初めて見た』。1週間ほど前、これを磨いていて、ハッと思い浮かんだんです」。それは蒸留器。酒を蒸留して焼酎に。医療に必要な純度の高い蒸留水(純水)作りに使ったようだ。松之山で見つけた。店では『珍品』と商品名がついている。

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 7年前の中越地震、今回の長野新潟県境地震。先人たちの生活の手足となった生活民具や歴史を語る古文書など、震災で散在している。藁細工など生活民具類の多くが「震災ゴミ」で処分され、骨董屋が引き取ったものもある。「私は、来てくれと声が掛かると出向きます。こちらから『もの漁り』のように行くことはしません。それでもいろいろと声がかかり、思わぬモノが見つかることがあります」。

 それは、もみくちゃにした紙くずだった。そのままゴミに出されても不思議ではなかった。「その紙を広げてみたら、小千谷縮の文字が出てきた。その書体に見覚えがあったので…」。きれいに広げると「肇巧碑」の表題から始まる古文書は、小千谷縮の由来書だった。

 解体させる家に呼ばれた。かなり古い本や新聞か積み重なっていた。「私が呼ばれなければ、きっとそっくり焼却ゴミに出ていたでしょうね」。津南町のその家からは、江戸期の彩色された大きな地図が、積み重なった本の間から出てきた。
父から引継ぎ、3年間、古伊万里にじっくり取り組み、その後の3年間、麻布、きもの類に取り組み、以降も独学で利き目を鍛えている。

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 目に触れなければ、そのまま消え失せてしまう手書き資料。地域の、その時の生活、歴史が色濃く出ている。「なんだこれはと、捨ててしまえば、そのモノは永遠に、二度と作ることができません。そうしたモノが消失したり、散在するのは悲しいですね」。地元から出た資料は、転売するつもりはない。「県外で津南地域のものが時々出ます。なるべく、求めるようにしています」。災害や新築で散在する庶民の歴史財産。博物館などとは違った視点で、庶民の暮らしに直結した品々を集め、保護し、次代に伝えたい、という。

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 人気の竹久夢二。『十日町サッテモ節』の楽譜を県外で見つけた。表紙は夢二の代表的なきもの美人。中山晋平楽曲集の第9集。地元十日町市にもない「幻の楽譜」だ。『北越雪譜』全7巻初版本も見つけた。何人もが値をつけたが、「私が一番低い値でしたが、その所有者は、『あなたのこの本への思いに託します』と私に譲ってくれました」。

 骨董屋というイメージとは、ちょっと違う高橋静男。今日も地域の人たちが託した「歴史」に埋もれ、整理作業に汗を流している。

津南町認証米は「津南・米・心」(つなん・まい・ハート)  7月1日号
 津南町は今年産米を、一定の栽培条件をクリアした米に対し、町が良質米と保証する「認証米」として全国流通する。その認証米の名称と出荷袋に貼る認証マークを決め、1日発表した。
 
 選定された名称は「津南・米・心」。読み方は「つなん・まい・ハート」。名称には2月から4月末までの作品募集に全国47都道府県から3171点の応募があり、1次選考168点から石川県白山市の熊田信幸さんの名称が選ばれた。熊田さんは「真心のこもった津南の米。生産者の真心を津南に込めた」とネーミングへの思いを応募用紙に記している。


 一方、認証マークは、同様に全国から487点の応募があり、埼玉県狭山市の仲秋広志さんのデザインに決った。実りの黄金色をベースに、米を擬人化したデザイン。「光り輝く米をイメージ」と製作の思いを記している。上村町長は「全国47都道府県から3千を超える応募に驚くと同時に、この声にしっかり応える農業を樹立する力をいただき、認証米への取り組みに確信をいただいた」と話す。今秋の出荷時期にはアピールイベントを計画し、震災や原発事故で米が作れない東北からの米作付の面積配分に応えるためにも、「新米、それも認証米を東北に贈りたい」と今後の農協などと検討する方針だ。


 この津南町の認証米は、特別栽培米(JAS基準、国のガイドライン、県認証基準に適合)であり、1等米、選別基準1・9_以上網目使用、タンパク値5・5%〜6・0%(集荷業者測定)の条件に合致していることが条件。

 町のまとめでは、認証米申請の栽培面積は263f、主食用栽培面積1414fの18・6%。10e8俵で約2万1千俵の出荷が見込める。課題は流通での評価。今後、出荷前に津南認証米をアピールする取り組みを計画する方針だ。

震災ボラ、ひとみ座の山本コーゾーさん、熱演に大爆笑  7月1日号
 ◎…「こんなに笑ったのは、あの地震以来、初めて。楽しかったなー」。創立60年の日本を代表する人形劇団「ひとみ座」(本部・川崎市)のメンバー、山本幸三さんが27日から29日まで県境地震の被災地、津南町、栄村の保育園や小学校など6会場で一人芝居を行い、園児や小学生、大人も大笑いした。山本さんは「子どもたちの元気な笑顔に会えて良かったです」と、ピエロ顔のまま、子どもたちと握手を交わしていた。上郷小(竹内紀夫校長、41人)では子どもも先生も大笑い。子どもたちは「あー楽しかった。馬が逆立ちとヘビの綱渡りが面白かった」など。


 ◎…山本さんの母、ツギイさんは津南町出身。そんな縁で津南町の交友関係者と25年余り前から親交を深め、「セロ弾きのゴーシュ」や「マウイチキチキ」など、ひとみ座公演を定期的に行っていた。今回、山本さんから「子どもたちを元気付けたい」と地元行政などに連絡し、両町村でもボランティア公演が実現。作品は「Do Do Circuys」。ピエロの扮した山本さんが個性あふれ、思わす笑ってしまう10体の人形を操る大爆笑ステージ。栄村の北信保育園は、被災で建物修復中のため、閉園した旧東部保育園(島田きみ子園長、28人)に秋山保育所からも参加し、個性ある人形が繰り広げる動きに、会場は笑いに包まれた。今秋か新年早々には本格的な「ひとみ座」公演を計画している。

自然の声を生み出そう、沖縄・川端さんと松之山風雲、交流続く 7月1日号   
 2年前の第4回大地の芸術祭で松之山など地元の子たちと大合唱作品を発表した沖縄のアーティストで児童センター館長の川端美和子さんが先月18日から3日間、県境地震で被災した松之山を訪れた。19日夜には芸術祭後も松之山・湯山集会場で続く歌の月例活動に顔を出し、沖縄の子たちが歌う録音を持参し、「大地の声を生み出そう」と大人や小中学生ら20人余とアフリカの歌などを歌い上げた。 


 芸従祭では、子たち百人が参加し、沖縄の歌など独特の地声で歌い上げ、大きな感動を呼んだ。芸術祭に参加した子たちや関係者が、「この感動を続けようと」と新たなに「松之山風雲」を結成。川端さんの交流しながら活動を続けている。昨年は松之山の子たちが沖縄を訪れ、交流を深めている。


 今回の松之山訪問。「大きな震災で皆どうしているかなと来ました。元気な顔を見て安心です。地震の恐さは口に出していいんだよ。一緒に歌いましょう」と川端さん。19日夜は持参の録音を聞きながら、アフリカの「ハイエ・キルンバ」や「クッカナンギ」、あるいはフランスの「牧場の娘」など独特のリズムと音階、言葉の歌を肉声だけで歌った。


 松之山小6年の高橋航太君は芸術祭にも参加。「初めての歌だったけど、面白かった」、3年の村山舞桜さんは初めて参加。「歌ってとても気持ちよかった。言葉では言われない面白さがあります」と身体全体で歌っていた。


 川端さんは、「いろいろな歌があります。人も自然の一部。大地と共に歌う、大地の声を生み出そう、そうして歌うことで自分を解放してくれます」と、人が本来持つエネルギーは歌を通じて引き出せるという。来年の第5回芸術祭への参加も準備しており、松之山での活動をベースに取り組みを始めている。

写真・松之山湯山で子どもたちに歌を指導する川端さん

震災復興、被災機に温泉宿再建、木造の良さ生かし  7月1日号  
 県境地震で大きな被害を受けた津南町田中地区、信濃川のほとりの一軒宿「しなの荘」。3月の大震災で大きく破損、3カ月余の休館を余儀なくされたが、大改修し今月3日に念願のリニューアルオープンを迎える。「町内外の方に、あってよかった、と思われる宿にしたい」と気持ちを新たにしている。
 

 創業48年。「のんびりお気楽」をモットーに営業。町内外のリピーターが多く、親しまれる宿。だが3月12日未明の大地震。大きな縦揺れの後、激しい横揺れが襲い、客室や浴室、窓ガラスが割れるなど館全体に被害が及んだ。判定は「半壊」。ただ温泉の配管は無事、建物の基礎も直せる範囲と分かり修繕を決めた。山岸祐二館主(37)は「被災した時、お客さまから心配の連絡やいつからまたやるの、という声があり、励みになった。館の老朽化も進み、修繕の負担は大きいが地震を契機に直すなら今、と決断した。リニューアルで津南は元気だぞ、とアピールしたい」と話す。
 

 修繕設計は『大改造!劇的ビフォーアフター』にも出演した倉橋英太郎氏に依頼。木造の赴きある雰囲気はそのままに、新たに半露天風呂付客室、割安で泊まれ、自炊もできる部屋も新装。新たな魅力を付け加えた。館主と二人三脚で宿を切り盛りする女将の麗好さん(39)は「地震直後は呆然としましたが、何とか夏に間に合いました。素朴なのんびりできる空間がこの宿の良さ。地震になんか負けてられません」とにっこり。再オープン日もすでに常連客などから予約が入り、新たな一歩を踏み出している。

竜ヶ窪温泉が新事業、地元素材使い惣菜販売  7月1日号
 ◎…温泉帰りに、今晩のおかずはいかがですかー。広い露天風呂が人気の津南町の「竜ヶ窪温泉」で先月から「惣菜部」を立上げ、毎日、地元の新鮮野菜や同館で作る豆腐、オカラなどを素材に手作り惣菜を提供している。人気の「名水とうふ」の副産物、オカラを使った惣菜が評判だ。おからコロッケ、うふプリン、大根煮物、アスパラごまあえなど180円から3百円以内。野菜料理、揚げ物など作り置きせず毎日料理している。担当の涌井絹子さん(60)は「地元の新鮮野生など、なるべく地元の食材をつかい、アイデアを出し合って作っています。これからはかぼちゃ料理ですね」と毎日6、7品ほど提供している。「温泉帰りに一品、いかがですか」。


 ◎…同温泉施設・竜神の館を経営する株式会社竜ヶ窪温泉の第16期株主総会を28日開き、総売上9859万円に対する今期決算17万4千円損失の決算を承認した。同館は昨春、町事業による温泉ポンプ設置で湯量が増え、温度上昇で電気量軽減となり、経営コストを下げたが黒字基調できたが、3月の地震の影響で売上ダウン。総会で涌井九八郎社長は「この温泉会社設立の当初の思い、原点に帰り、さらなる経営改善と努力をしたい」と17期への経営方針を示した。昨年度経営状況は、温泉収入2655万円、食堂収入3221万円、売店収入2069万円、直売所収入1413万円、部屋代、ゲートボール場など施設収入86万円。(数字は税込)

写真 毎日アイデアを出し惣菜を作る涌井絹子さん


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