「あの時の女子中学生の言葉が、今も耳に残っている」。市町村の存続をかけた合併問題。津南町は2003年(平成15年)、十日町地域広域合併協議会への不参加を決めた。その年の秋。「何の用で行ったのか、よく覚えていないが、津南中学へ行くと、女子生徒たちが近づいてきて、『町長さん、津南という名を消さないで下さい』と言った。身震いする言葉だった。子どもたちは考えているんだなと、感動したことを今も覚えている」。
翌16年1月、自立宣言。新潟県112市町村が今は30市町村。「合併しないで良かったのか、そうではなかったのかという検証は、もう少し先になるだろう。私がこれをどうこう言うべきことではない。後の人たちが検証し判断すること」。今回の町長選でも、『自律から自立へ』など、合併しなかった津南の歩みを評価する声は多かった。
町長選初出馬の年の3月、町職員・農政課長を退職。その6月、選挙に押し出された。当時52歳。「国営苗場山麓開発をまとめた責任上、なんとしても完工する必要があった」。三つ巴戦。共に3千票台を取る激戦だったが惜敗。
4年後、今度は一騎打ちで初当選。「投票日前夜の打上げで、正面地区を歩いた時、お年寄りが泣きながら、何かを訴えるように握手を求めてきた。あの握手は、今も忘れられない」。誕生した小林町政、『弱者優先、へき地優先』を掲げた。
「初めから3期と考えていた」。だが、時代がそれを許さなかった。3期目で市町村合併問題が浮上。さらにグリーンピア津南の地元移管など、町の根幹を揺るがす問題が続出。初当選の「大きな宿題」苗場山録開発は完工を迎えていた。
合併問題は、町民アンケートなどで町の雰囲気は読めていた。だが、あの女子中学生の言葉が背中を押した。町職員の自主的取り組みで「自律プラン」を策定。その手法を視察に全国から視察が相次ぐ。隣の長野県栄村も自立宣言。『小さくても輝く自治体フォーラム』で全国連帯を進めた。その輪は全国の町村へ広がり、民間も関心を示した。食品大手「日本食研」。2歳違いの大沢一彦会長(当時社長)とは「竹馬の友」のように親交を深める。小林町長が組合長の津南町森林組合を通じた信頼関係を築き、「あり得ない津南営業所の開設」に発展。津南の頼もしい応援団になっている。「人と人との思い。その思いをいかに大切にできるか、それが行政の基本だ」。
広大の耕地が誕生した苗場山麓開発。「津南の大きな財産。基盤はできた。これからは活用だ。必ずや、やってくれるだろう」。農業者のチャレンジ魂、不屈の精神に期待を寄せる。「酒蔵も心配だが、個人的にもなんとかしたい」。
「女房孝行をしなくては」。20年前の初当選、町長就任の頃から「5百円貯金」をしている。退任後「旅行にでも」と思っていた。だが4年前、妻・雅子さんがパーキンソン病を発病。「公務がないのは年末の大晦日くらいだったかな。正月から連日の公務。家族には世話をかけた。せめても、と思っていたが発病してしまい、これからは世話をしたい」。自分も5期中、喉頭ガンの手術。今も2ヵ月に一度、東京慈恵医大に検査に通う。
信条としてきたのは『名もなき民の心もて』。先日、最後の課長会議で「職務に誇りを持ち、イエスマンになるな」と言葉を贈った。毎年千枚を越える年賀ハガキを受ける。20年間の人のつながりの証しだ。
退任の翌日、7月9日。何をするのか。「朝、いつものように森林組合に行く。その後は、そうだなー」。「本当は新聞記者になりたかったんだぞ」。日焼けした顔で笑顔を見せた。