
「農を以って立町の基と為す」。国営苗場山麓開発、大規模年金保養基地グリーンピアなど津南町の礎を作り上げ、地域農業を守るためヨーロッパでムシロ旗を掲げて日本農業のあり方を訴え、生涯「信念の人」を貫いた津南町長、農協新潟県中央会長、津南町農協組合長を歴任した津南町名誉町民、村山正司氏が12日午後8時20分、町内上段の長男、町立津南病院・村山伸介副院長の自宅で死去した。93歳。近親者による密葬は15日、龍源寺で執り行った。津南町と津南町農協は合同葬を11月5日、町文化センターホールで行い、映像などで村山氏を偲ぶ予定だ。
村山氏は旧下船渡村議から新生津南町議。副議長在職中、2度に渡り町長選に出馬し、昭和38年2月町長初当選。この時の公約が「冬期間の生活道確保」。全国初の機械除雪のためブルドーザー導入を議会提案。だが議会は反対。「ならば解散」と一歩も退かず、議員説得を重ね実現。この年、あの三八豪雪。NKH「現代の映像」で運休の飯山線復旧や町内除雪に陣頭指揮する村山町長の勇姿が記録されている。
町長4期後、昭和53年新潟県農協中央会理事長就任を機に勇退。全国農協中央会理事時代、ベルギー・ブリュッセルでのガット農業交渉でムシロ旗を掲げ抗議行動。地元新聞に大きく掲載。農協合併以降、新生津南町農協組合長に平成14年5月まで就き、農業振興に尽力。米輸入が決まると「農業農村が崩壊する。国は何を考えているんだ」と農協総代会や農業集会で独特の「村正節」をぶった。
村山氏は津南の自然をこよなく愛した。西武など大手デベロッパーが資金力にものをいわせ開発構想を何度も持ち込んだが「民間には使わせない」と守り、その資源を最大活用する年金事業団・グリーンピア津南の誘致を実現。さらに「日本の一大食糧基地」をめざすと共に、農業所得の倍増を掲げ、国営苗場山麓開発事業を導入、2674fに及ぶ広大な農地整備を実現。
行政姿勢は中央省庁への直接要望を貫いた。「政治家には頼らない。津南のことは自分が一番良く分かっている」と霞ヶ関に直接出向き直談判。全国注視の事業を次々と導入した。
戦争であごを失った。負傷した戦友を肩に担ぎ、救助している時、敵軍の射撃でやられた。野戦病院で生死をさまよったが、持ち前の強い意思で生還。その意思の強さは、町長、農協組合長時代、数々の逸話を生んだ。県庁、金沢の農政局などへは自分の車に部下を乗せ、自ら運転して行った。速度メーターが振り切れる運転。出張旅費請求などいっさいしなかった。
昭和34年2月の町長選初出馬の時、初めて村山氏と会った小林三喜男町長。以来、師と仰ぐ。12日、突然の悲報を受けた小林町長。「ひとつの時代に幕が降りたという思いだ。もうすこし長生きし、じっくり語り合いたかった。ふたりで、へぼ碁を打ちながら、時間を共にしたかった。我が師を失い、残念だ」。
下船渡本村の自宅には囲炉裏がある。「寝る前に一本吸い、それを地炉の灰に指しておく。朝、それを吸うのが一番うまいんだ」。在職中、両切り缶ピース(50本入り)を一日2缶吸っていた村山氏。12日は長男家族といつも通り夕食を食べ、ひと休みしている中、そのまま逝ったという。激動の93年、その最期はあまりにも静かだった。 (恩田)
写真・1990年4月 津南町下船渡本村の自宅で 恩田撮影