「死んだ子を埋めようにも、土が凍っていて、穴も掘れない。シャベルもなかった。くぼ地に置いて、枯れ草をかぶせる、それがやっとだった。そのうちに狼が来て、それを食いちぎってしまう。もう、気持ちがモウゾウして、悲しんでなんかいられなかった。今、この年まで生きて、切なくてしょうがないが、もう、どうしょうもないて。子どもとジサの分まで、長生きしちまったな」。
丸山トラさん、8月6日が満100歳の誕生日。明治40生まれ。100年の歴史は、日本の歴史に振り回された歳月でもあった。
生後100日の長女、9歳の長男、夫・喜作さんと敗戦色が濃くなる昭和18年、満州開拓団に参加、中国大陸に渡った。日本軍が支配する満州、だが戦局の悪化で混乱状態へ。
「山が一つも見えない平らで、なんにもない所だった。親は行くなと言ったが、家にいても、どうにもなんなかった。あっちで、なんとかしようと働いた。あれは昭和20年の8月10日だったか、突然『避難しろ』の命令が出た。戦争に負けたと思った。その日は、大変な大雨で、びっしょりになりながら逃げた。道は泥の田んぼのようだった。男は戦争に取られ、年寄りと女・子どもだけだった。万年筆や時計など、珍しいものは満人(満州の人)にみんな取られた」
「なんとか、新彊(シンキョウ)に着いた。そこでチフスが流行り、年寄りや子どもが毎日のように死んでいった。3歳になった娘が死に、10日後に12歳になった息子が死んだ。凍りついた土は、穴が掘れない。シャベルもなく、くぼ地に置くしかなかった。石を並べた墓に饅頭を上げると、すぐに満人が取って食った。乳飲み子を背負う若い嫁さんは、栄養失調で乳も出ない。死んだ我が子を背負ったまま、『死んでくれてよかった』なんて言っていた。あんな状態では、人はオニになるんだな」
敗戦。支配者から逃亡者へ。混乱の引き上げ。昭和20年9月、引上船が佐世保に着いた。着の身着のままの喜作・トラ夫婦も乗っていた。だが、船内にチフス感染者がいるとの誤った情報が流れ、ここで1ヵ月、暑い船内に缶詰にされた。渡満時、一緒だった2人の子は、満州の地に眠る。
「今はグリーンピアになったが、あこの谷上の開拓地に入った。小屋をかけ、毎日外丸から通って耕した。23年に家を作った。なんにもない谷上だった。そこに20年間いた。金もない、ろくな作物も取れない。いま思うと、どうやって暮らしていたか、夢のようだて」
グリーンピア開発が決まり、喜作・トラ夫婦は津原に越す。小さな家が移転補償だった。数年後、喜作さん、胃ガンで死去。「喜作65歳、トラ64歳」の春だった。以来、36年間、独り暮らし。「この家は、半柱の家だて」という居間の神棚の上には、満州から外丸に送った娘と息子のあどけない遺影、そのわきに喜作の笑顔が並んでいる。