昨年12月26日、インドネシア・スマトラ沖地震で壊滅的な被害を受けたインドネシア、バンダアチェ。この地を訪れたのは今年の夏。廃墟と化した海岸に住む被災民のほとんどは、テントやバラック暮らしだ。
「まるで原爆の跡のようでしょ」と、現地案内した大学生の足元を掘り返すと人骨が現れた。この廃墟にはまだまだ、無数が埋もれたまま残っている。
海岸地帯は地震後に襲った30bを超える津波で何もかも無くした。マイルドワティ地区で、ひとり佇む被災者に話を聞いた。
ブスタミーンさん(29)。震災で一家9人を亡くす。我が家と分かる唯一の証し、床に貼ってあった白タイルが残されただけ。自宅の間取を説明し、重い口を開いた。「ちょうどその時、私は仕事中。地震と津波の後、帰れる状況ではありませんでした」と下を向いた。
数日後、やっと家に戻り家族を捜し歩いたが、遺体すら見つからず9人全員行方不明。以来、身体の力が抜け、何をしたらいいのか分からず、自然と足は毎日、自宅跡に向うという。
援助はインフラ整備や社会、公共サービスばかりでなく、ブスタミーンさんのようにPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えた被災者にこそ必要だ。
NGO「YADESA(ヤデサ)」が活動しているバンダアチェ近くの漁村を訪ねた。ランバド村を含む4ヵ村の住民約5千人、生き残ったのは約5分の1の913人。日本の漁村復興支援の一つである自立に向けた漁船造りが今進み、その引渡しを見せてもらった。
自らも被災したYADESAボランティア、シュナイディーさん(24)は、「地震と津波で生き残った者同士、親子や兄弟として再出発しているところです」と話す。だが、ここも類にもれず新造船を繋留している海岸は、多数の人骨が残されている。
復興のための行政機能はいまだ復旧が遅れ、それを問うマスコミや世論も、次々に発生する災害や事件に目が向き、1年を経とうとしている今、メディアに取り上げられることも少なくなっている。
40度を超える赤道直下の炎天下。撮影中、「我々は、見放されているのか。いったい、いつになったらこのテント生活から抜け出せるのか」と質問してきた被災者に、返す言葉が見当たらなかった。
(写真・取材 吉田勝美)