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2010年10月のねっとわーく

過去のネットワーク
島田繁さん スノーランド社長 59歳
 研ぎ澄まされた究極の美、日本刀の魅力に引きつけられている。「子どもの頃からチャンバラが好きだったように、刀に裳力を感じていました」。その思いを抱きつつ、高校に入り剣道に取り組む。日本刀、その本物を見たのは高校時代。東京の美術館で間近で見て、さらにその魅力に取りつかれた。「まさに究極の美しさ。世界的にも、比類なき美術品だと思います」。
 

 東京での学生時代も、時間を見つけ美術館通いした。卒業と共に津南に帰り、津南町農協プログラム担当を10年間務め独立。36歳の創業。3人でスタートしたソフトプログラム会社を電気電話設備部門を含め社員24人にまで成長させた。「厳しい状況にありますが、皆さんのおかげです」。創業時から本社を東京に置き、首都圏で営業展開。一部上場やジャスダック上場企業などを顧客に持つ。
 

 会社のトップとして決断を迫られる。「心を落ち着かせる時に刀を見ます。すーと心が静かになります」。その静かな心で、邪念を切り捨て、経営決断する。20年ほど前から財団法人日本美術刀剣保存協会の会員。毎年更新している。十日町・津南で会員は4人、長岡支部、新潟支部があり新潟県で会員は百人ほど。その協会認定の刀剣鑑定できる「伝位」でもある。
 

 東の「虎徹」、西の「助広」という。時代を代表する刀匠。助広の作品に魅せられる。一振り1千万の値がつくという。「3百年前からその輝くを保つ。確かに当時は武器ではありましたが、一方で絵画や書と同じように美術品です。魅力はつきませんね」。地域では星と森の美術館の所蔵品が逸品という。子どもの頃から感じる魅力は、少しも錆びない。
(2010.10.29)

高波覚栄さん 48歳 味処か久栄
 先日、好きな山散策でみごとなキノコ群に出会った。この地域では一番のなじみで味わい深い「ナラタケ」と「シシタケ」。大きな古木にびっしり出ていた。携帯で撮ってきた。「これだけのキノコは久々ですね。いやー、みごとでした」。プロの腕にかかると、さらに味が増す。今が旬のキノコ料理も「かく栄」のおすすめ。
 

 来年4月で開店10周年。「あっという間ですね。皆さんのおかげです」。料理の道のスタートは洋食、それもフランス料理から。調理師資格を取得後、プリンス系のレストランやホテルで修行。三河湾を一望する伊良子ビューホテルにもいた。「山や自然が好きでしたから、いずれはという気持ちがありました」と27歳でUターン。当時の新潟県観光公社直営・マウンテンパーク津南に勤務。経営母体が変り、転機を見つけ38歳で独立。津南町役場前に自分の名から取った「かく栄」をオープン。毎週4日、新鮮な魚介類を求め、飯山市にある市場を通さないで魚場から直接入る鮮魚店に仕入れに行く。今は脂が乗った「戻りカツオ」が旬。ノドグロの刺身、鮮度ある岩カキなど直接仕入れだけに、旬の味が違う。かく栄では、そば職人・高波敏日子さんの手打ちそばが出る。
 

 調理師学校に通う長男。「朝早く家を出て、夜遅く帰るので、子どもたちのことはカミさん任せです。でも、嬉しいですね、その道をめざしてくれるということは」。将来のことは未知数だが、「10年は修行を積まないと、一人前にはなれない。どうするかは自分の判断ですよ」。仕事人間だが、リフレッシュは山散策と20年のキャリアのゴルフ。「仲間作りに最適ですよ」。
(2010.10.23)

福原嘉定さん 74歳 津南町外丸本村
 木の高さ50b、幹周り11・4b、樹齢は千5百年という津南町文化財「八本杉」。地元の外丸老人クラブ「末広会」が世話をしており、その巨木がある矢放社の境内を清掃している。「お盆前に草取りや掃除を行い、八本杉に肥料をやっている。やはり杉葉のツヤが違うな」。近くの小学校や保育園の子たちが集い、お年寄りたちがゲートボールを楽しむなど、八本杉は地域の鎮守の森の御神木として外丸地区を見守っている。
 

 津南町内で会員数が一番多い老人クラブ末広会の会長を務め2年目。会員は134人。今月26、27日、秋の旅行会で湯田中温泉へ行く。飯山市の人気の高橋まゆみ人形館や善光寺、中野・信州フルールランドなどに寄る計画。「皆さん、楽しみにしている。余り遠いと疲れるので、近くで楽しめるようにと決めた」。今のところ23人ほどが参加する予定だ。一方で悩みは老人クラブへの入会の少なさ。「70過ぎてもまだ若手では困るな。65歳からの入会だが、その世代はまだ働いている人が多い。老人クラブもなかなか難しくなった」。福原さんも現役でいろいろな役に就いている。
 

 津南町農協を平成5年5月に退職。以降、次々と声がかかり保養所支配人、温泉施設支配人、シルバーセンター津南所長など3年ごとに仕事が変った。「どういうわけか、次々と声がかかったな」。
 
 地元のお年寄りが月に一度集う「じろばた会」を妻・幸子さんたちが開く。その資金源になっている古紙回収を手伝う。もう12年になる。「やはり、何かやることで生活に張りが出るな」。十日町市から飯山市までの60`歩け歩けには10回以上出場。「やっぱり健康が第一だな」。
(2010.10.15)

中島伝一郎さん 80歳 津南町大井平
 長年米作りをしてきたが今は人に任せている。「今年は春から天気が変だった。収量がだいぶ落ちている」。新米シーズン。娘たち家族や親戚、友知人などに秋の味覚、新米を送る。「昔は俵だった。1俵60`、俵を含むと65`。それを担ぎ倉庫に積み上げだが、今の人たちが担いだらすぐに腰を痛めるだろうな」。
 

 敗戦色が濃くなった昭和19年、高等科に進んだ。「2年生になると強制志願だったから、もう少し戦争が長引いていれば、戦地送りだったと思う」。終戦後、知り合いの勧めで当時の上郷農協に就職。昭和30年同じ大井田のツタさんと結婚。その3年後、父・賢一郎さんを病気で亡くす。28歳で一家の支える立場に。
農協合併を経て津南町農協へ。55歳定年の時代、昭和60年、生活部長で退職。農協が運営受託した御陣荘支配人を10年余り勤めた。

 
 「月日の流れは早いもんだ。以前は5年ごとに老眼鏡を作り変えていたし、体力の衰えもそう感じていなかったが、80近くなってから1年ごとだ」。だが、地元の善福寺の会計やまとめ役は昭和40年代から行い、今も受け持っている。
 

 中島家は外国に縁がある。長女家族は4年前までUK(イギリス)で10年余り暮していた。訪ねて行ったこともある。次女の娘は9月からアメリカへ留学。「連休とお盆には顔を見せてくる」。農協時代の仲間と中国にも行った。
 

 本が好きだ。「小学校に入る時、本屋で働いていた東京の叔父さんが本を送ってくれた。それからかな」。山岡荘八、池波正太郎、吉川英治など時代ものが好きだ。
「最近はなかなか読めないが、読書は好きだな」。
(2010.10.08)

島田昭一さん 津南町朴木沢 83歳
 早くに父を亡くし、32歳から一家の大黒柱として、家業の農業や会社勤務に精を出した。父・冨貴さんは心臓病を患い、昭和34年に死去。父は全員男の5人兄弟だった。長男・久吉さんは松之山温泉「凌雲閣」創設者。次男の益雄さんは津南町の老舗・大阪屋商店創業者、三男・喜公さんは大工の棟梁。この人が和風建築の粋を集めた凌雲閣を建てた。「父親は4男で、兄弟皆がすごい人たちで、私もお世話になった」。昨年秋、長年の消防団活動の功労で叙勲を受けた。
 

 父の後を継ぐため長野・下高井農林高校へ進むが、「当時、予科練をめざす男たちが多かった」と在学中に志願し、甲種予科練学校へ入学。横須賀通信学校で6ヶ月間、モースル信号などを学び舞鶴海兵団に配属、出兵寸前に終戦をむかえた。「もうちょっと長引いていれば、戦場に送り込まれていただろう」。終戦と共に帰郷。人手不足の当時。親戚の世話で当時の上郷農協に勤務。だが5年後、父の病気で退職し農業に専念。昭和29年には、町内赤沢生まれの文子さんと結婚。その3年後に父が他界、文字通り一家を背負い、凌雲閣を手伝い、大阪屋商店勤務などで家族を守ってきた。土地改良事業などの役員も多数受けた。
 

 最盛期には1・8fの水田を作る。家の周りの田のほか標高差2百b余の急坂道を登り中子原を耕作。「今は道路ができ、すぐに行けるが、あの頃はこの急坂を上った。よく通ったものだ」。
今の日課は夫婦での温泉通い。「毎日行っています。体が温まり、疲れも取れます。なにより人と話ができるのが良いですね」。文子さんの運転10分ほどの北野天満温泉に通う。
(2010.10.01)


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