長年米作りをしてきたが今は人に任せている。「今年は春から天気が変だった。収量がだいぶ落ちている」。新米シーズン。娘たち家族や親戚、友知人などに秋の味覚、新米を送る。「昔は俵だった。1俵60`、俵を含むと65`。それを担ぎ倉庫に積み上げだが、今の人たちが担いだらすぐに腰を痛めるだろうな」。
敗戦色が濃くなった昭和19年、高等科に進んだ。「2年生になると強制志願だったから、もう少し戦争が長引いていれば、戦地送りだったと思う」。終戦後、知り合いの勧めで当時の上郷農協に就職。昭和30年同じ大井田のツタさんと結婚。その3年後、父・賢一郎さんを病気で亡くす。28歳で一家の支える立場に。
農協合併を経て津南町農協へ。55歳定年の時代、昭和60年、生活部長で退職。農協が運営受託した御陣荘支配人を10年余り勤めた。
「月日の流れは早いもんだ。以前は5年ごとに老眼鏡を作り変えていたし、体力の衰えもそう感じていなかったが、80近くなってから1年ごとだ」。だが、地元の善福寺の会計やまとめ役は昭和40年代から行い、今も受け持っている。
中島家は外国に縁がある。長女家族は4年前までUK(イギリス)で10年余り暮していた。訪ねて行ったこともある。次女の娘は9月からアメリカへ留学。「連休とお盆には顔を見せてくる」。農協時代の仲間と中国にも行った。
本が好きだ。「小学校に入る時、本屋で働いていた東京の叔父さんが本を送ってくれた。それからかな」。山岡荘八、池波正太郎、吉川英治など時代ものが好きだ。
「最近はなかなか読めないが、読書は好きだな」。