42年間の単身赴任生活に昨年3月、ピリオドを打った。全国各地に営業所を持ち、海外にも事業展開しているNIPPOコーポレーション(前日本鋪道)に在職中は、北は秋田、南は長崎まで全国各地に赴任した。「横浜勤務時代には、東名高速の第1期、川崎インターと環七間を担当した」。入社は東京オリンピック、新潟地震の翌年の昭和40年。高度経済成長の真っただ中の頃。「いちばん経済が良い時代だったかな」。
富士山の裾野地区に昭和41年にトヨタが建設したテストコースも担当。「最大斜度42度のコース作りは、大変だった。表層舗装が流れ出したこともあった」。新潟のビッグスワン(現東北電力スタジアム)のトラック、フィールドも担当。道路舗装だけでなく、陸上競技場やテニスコートなど、あらゆる舗装関係が業務の会社だ。
入社時、「3年ぐらいで帰るかなという気持ちで家を出たが、仕事の面白味というのか、あきなかったし、やりがいがあった」。同じ集落内のハルミさんと結婚。単身赴任は続いた。だが、33歳の時、父・正吉さんが55歳で突然の死去。「朝、草刈りに出てそのまま倒れ、それきりでした」。夫婦で話し、米と葉タバコ農業に区切りを付け、「仕事を続けた方がいい」と話し合った。「家を守ってくれ、ありがたかった」とハルミさんに感謝している。
定年退職。待っていたように地区役員などが回ってきた。昨年12月から町民生委員。担当の約百戸を受け持つ。18歳から初めた囲碁、「なかなか相手がいませんね」と対局相手を求めている。今年12月、ハルミさんが定年退職。「ふたりで中国に行こうと思っている」。これまでの苦労への感謝旅行だ。